鬼と華

□精霊蜻蛉 第四幕
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夜の大堰川に、白い明かりが揺れている。半月から満月へと形を変える途中の月が、水面に優しい光を落としているのだ。激動の一日を終えて、嵐山は穏やかな夜を迎えようとしていた。


三条大橋にいた薫と鬼灯屋の女将は、籠を走らせて急ぎ嵐山へと戻った。夕刻に勤皇党の隠れ家に到着し、晋助の手によって間崎拓馬が無事匿われたことを知るや、ふたりは手を取り合って喜んだ。
女将は鬼灯屋に戻らずに拓馬の看護をするため残ると言い、薫も手伝いたいと申し出たものの、女将に目敏く諭された。

「仲間を助けてくれた勇敢なお侍様に、御礼を伝えなくてはいけません」
「でも、拓馬さんが……」
「薫さん。宿に戻りたくない事情は、様々おありでしょうけれど」

薫が渋る素振りを見せると、女将は彼女の背中を押した。

「拓馬の体を拭い、水を与えるのは私達仲間の仕事です。でも、あのお侍様のお手当ては貴女にしか出来ないのですよ。貴女が一番に行くべき場所は、ご自分でもお分かりの筈です」



“一番に行くべき場所”。
女将が晋助の許をそんな風に言ったので、薫は胸がじんと熱くなった。

拓馬を救い、風のように去っていった晋助の後ろ姿を思い出す。その頼もしい姿は、昔からちっとも変わらない。総督の名を背負い、鬼兵隊を、仲間を護ろうと戦ったその背中。
追いかけては恋い焦がれ、そして想いを告げたいつかの日に願ったものだ。晋助の為なら、身も心も、命さえも惜しくはない。

全て捧げたっていい。そんな風に願うのは、昔からたった一人だけ……。



◇◇◇



そうは言っても、鬼灯屋に戻る薫の足取りは重かった。“一人にさせてくれ”と晋助に言われたことを差し引いても、無断で出ていったことに引け目を感じていたからだ。

隠れ家から鬼灯屋まで、渡し船で大堰川を下る時間はあっという間に過ぎてしまう。薫が恐る恐る宿に足を踏み入れると、部屋の中では、晋助は濡れた刀や鞘を乾かし、布で拭いて手入れを施していた。

何と話しかけたらよいのか、薫は入り口で立ったまま、まごついた。冷たく突き放されたら何としよう、そんなことを考えていた時、晋助が口を開いた。

「今回は、随分と身勝手な振る舞いだな。出て行ったと思ったら武市の古狸の所に駆け込んで、小僧を助けたいと騒いだとか」

棘のある言い方であった。恐らく女将から、武市と口論したことを伝え聞いたのだろう。
晋助は、そのうえ……、と言って視線を上げ、疑わしい目をして薫を見た。

「病床の男と、何やら親しげにしていたと聞いたが。他の男に靡くために、わざわざここを抜け出したのか」
「そ、そんな!誤解です!」
「どうだか。穏やかな優男だそうじゃねェか」
「晋助様!」

晋助の疑りには、薫はすぐに反論した。どうやら女将は、余計なことまで晋助に吹きこんだらしい。勤皇党の大石行蔵とは、やましいことなど何ひとつないというのに。
黙って無関心を決め込まれるより、どんな辛辣な言葉でもあった方がいいとは思っていたが、一方的に言い責められるのは苦しいものだ。薫は拳を握り締めて、強い口調で晋助に言い返した。

「私には、私の意志がありますから。晋助様に故郷へ戻れと言われても、思いに沿うようにはできません」
「ほう。では次、何処へ行って何をするつもりだ?」
「何処へも、行くつもりなどありません。我儘な私でも……ひとつ覚えて、ここに戻りました」

きゅっと唇を噛むと、薫は一息に言った。

「今日の晋助様のお姿を見て、昔を思い出しました。私は……晋助様のお役に立てるなら、自分の命など惜しくはないのです。だから晋助様のお側にいられないのなら、私にとっては、死んでしまうのと同じようなこと……」

想いが通じるように、真っ直ぐに晋助の眼を見つめる。

「お側にいることがどれだけ危うかろうと、私自身の身は自分で守ります。ですから……私を遠ざけようとしないでください」

晋助は鋭い目つきで薫を見つめていたが、暫くしてふっと冷笑した。

「男を惑わす言い回しだな。どこで覚えてきた」
「……酷いわ!」

薫はひび割れるような声で言って、晋助に背を向けた。

お互いの想いは、どんなことがあっても変わらないと思っていたのに。ほんの小さな出来事から生じた亀裂から、容易くも崩れてしまうものなのだろうか。
そんなことを考えていた時だった。

「俺だって……考えはしたさ。お前の為にどうしてやればいいものか。だが、昔のことを思い返すだけで、何も浮かびやしねェ。お前が側にいないのは、つらい」

晋助の、低い声が聴こえた。辛うじて聞き取れるほどの、張りのない声だった。

「情けねぇモンさ。自分から突き放すようなことをしておきながら、お前が戻らないかと思うと……からだの何処かが、何度も壊れてしまいそうになった」

晋助が立ち上がる気配がして、薫に近付いてくるのが分かった。裸足で畳を踏み締める音が、一歩一歩、しだいに耳に迫る。

「何処へ行こうが何をしようが、お前は自由だ。だが、何も言わずに俺の前から姿を消すのは止めてくれ」

ぐっと肩を鷲掴みにされ、薫の体の向きが反転する。よろめいたところを、忽ち晋助の腕に抱きすくめられた。
骨が軋むのではないかと思うほどに、晋助は両腕にありったけの力を込めて、きつくきつく抱き締めてくる。やがて、くぐもった声が聴こえた。

「すまなかった」

どこか、体の痛みに耐えているような声だった。その言葉、響きが、晋助の心中を全て薫に伝えていた。

「私こそ、……ごめんなさい」

薫は晋助の着流しをぎゅっと握り締めるようにして、彼にしがみついた。胸が焼けそうに熱くて、息苦しい。行き場をなくした愛しさが、胸の真ん中に渦を巻いているような気持ちだった。

すまなかった、晋助のその言葉が、“側にいてくれ”という意味であるように。そう願いながら、薫は目を閉じる。愛しい人の温もりと紫煙の香りに抱かれれば、ここが自分の居場所なのだ、そう悟った。



もしこの先、己の身が滅びる時が来たとしても、その魂はきっと精霊蜻蛉が運んでくれる。
そして晋助の許へ辿り着いて、何度も何度も、彼の傍を羽ばたくのだろう。



(第四章 完)
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