鬼と華

□寒椿の追憶 第一幕
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薫が旅籠で迎えた翌日は、空気がキンと冷え込むような、冬の厳しさを感じる朝だった。
普段船で生活していると、常に空調で管理された空間にいるためか、季節を感じる機会に乏しい。冷たく澄んだ空気を肌に感じるのは、何とも清々しい目覚めだった。


薫はそっと寝床を抜け出し、物音をたてないように着替えを済ませた。髪をとかしながらふと窓の外に目を向けると、白いものがちらちら舞っていた。夜更けのうちに、今年初めての雪が降ったのである。

「晋助様、雪が積もっていますよ」

彼女はそう声をかけて、晋助を揺り起こした。

「どうりで冷え込むはずです。まだ、年の明けないうちから雪が降るなんて」
「あァ……もう朝か」

晋助は気だるげな様子で、ゆっくりと上体を起こした。後ろ髪に寝癖がついて、寝惚けた表情がやけに幼く見える。薫はフフ、と
笑った。
そして、覚束ない手つきで寝間着を脱ごうとした晋助を優しく制した。久しぶりに、二人でのんびりと迎えた朝。彼女は予め準備していた長襦袢と長着を傍らに置いて、晋助の正面に膝をついた。

「たまには、お手伝いさせてください」

薫は晋助の腰紐を解いてから、背後から長襦袢を羽織らせると同時に、寝間着の袖を抜いた。正面に戻り、長襦袢の左の部分をくるむようにして体の横へと持っていく。
岩盤のような、頑丈で逞しい腰回り。しなやかな筋肉が脈うつ背中。手のひらで撚れを押さえる度に、晋助の体温が伝わってくる。愛しいひとの着替えを手伝う、そんな些細なひとときに、日常の幸せを噛み締めずにいられない。


長襦袢の腰紐を結び終わったところで、晋助が呟くように言った。

「お前は、見えないことを怖いと言ったが、俺は片眼が瞑れても怖れたことはねェよ」

薫は晋助の後ろに回って、長着をすっと肩にかけた。袖に腕を通しながら、晋助は静かに目を閉じる。

「片方の視力を失ってから、嗅覚や聴覚が随分と研ぎ澄まされた。人間が本来備わってる野生の勘が働いて、視力を補おうと、他の器官が反応するのさ。雪が降る音、地に落ちて消えていく様子でさえ……俺には、目の前の出来事のように思うほどだ」

晋助はいつになく饒舌だった。
着付けが終わると、晋助は羽織を簡単に肩に掛けるだけにして、窓を少し開けて煙管に火を灯した。そして、薫をまじまじと見つめて言った。

「だが、片方の眼が残っていて良かったと思うのは……こうしてお前の顔を眺めている時だ」

薫は気恥ずかしくなり、肩をすくめて微笑んだ。饒舌なだけでなく、彼はいつも以上に優しかった。


朝餉を済ませてからふたりは旅籠を出て、薄く雪の積もった飛び石を慎重に歩いた。晋助は薫が転ばないようにと、肩をしっかりと抱いて前へ進む。空からは、灰のようにひらひらと舞いながら淡雪が落ちてきていた。
暫くして、薫は白い雪景色のなかに一際目をひく赤いものを見つけた。

「晋助様、寒椿の花があんなに……」

冬の陽だまりに、雪を被った赤い寒椿が咲いていたのだった。冷え込んだ朝、真っ赤な花を咲かせる寒椿は人目を惹く艶やかさがある一方で、寒さに耐える姿が何とも健気でもある。

「冬に花を咲かせるのは、暖かい時期に比べたら難儀そうだな」

晋助は立ち止まり、寒椿を見つめて言った。

「緋色に霜や雪を纏っているのは、まるで苦難に耐え忍んで生きる女のようだ」
「まあ。そんな女(ひと)に心当たりがあるような言い方ですね」
「さァ、どうだかな」

薫がそう言うと、晋助は低い声で笑って彼女を見つめた。

「雪景色の中にあって圧倒的な美しさを誇るのは、花の特権だな……」

厚みのある椿の花弁に陽の光が当たれば、雪は柔らかな水滴となり、花の縁を辿って地に落ちていく。
紅と白の色彩の対象の中に、見逃してしまいそうな変化がある。薫は晋助を見上げて、そっと腕を組んだ。

「目が見えなくなって光を失うなんて、私には怖くて想像出来ません。私達の生きる日々は混沌としていても、世界に目を向ければ常に目まぐるしく変化して、こんなにも眩しくて美しいのですから……」


静謐で、満たされた冬の朝。だが、それは鬼兵隊の船に到着した途端に、脆くも壊されることとなる。

一時は晴れ間の覗いた空も、雪がいよいよ本降りとなってきた。船の停泊場の付近は、うっすらと積もった雪で白く染まっていた。
やがて晋助が突然歩みを止め、足先で雪を避けた。砂利が赤黒く汚れているを目に止めて、彼は眉の間に深い皺を寄せた。

「…………血痕か」
「えっ」

薫は晋助の腕を掴んで足許を見る。

「そんな……見張りの者以外は、まだ旅籠から戻っていないはずなのに……」

忘年会で飲み潰れた鬼兵隊の隊士達は、そのまま旅籠で眠っているはずだった。隊士の中で、誰か船の付近に近づくものがあるとしたら……

(まさか……あの人が)

嫌な予感と共に、昨晩渡り廊下ですれ違った万斉の姿が薫の脳裡を過った。
彼女は着物が汚れるのも構わずに、甲板への渡し橋を一目散に走った。雪に紛れて、幾つもの血痕が確かに船へと続いている。

息を切らせて甲板に辿り着いた薫は、その光景に息を呑んだ。灰色の影を落としながら、雪が甲板に降り積もる。その一角に、うつ伏せになった男の姿。

薫は喉を震わせて、声の限りに晋助を呼んだ。

「ーーー晋助様、早く!」


船の甲板には、肩から血を流した河上万斉が倒れていたのだ。



(第一幕 完)
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