鬼と華

□寒椿の追憶 第三幕
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万斉が印した椿の地図を頼りに、薫は町外れの寂れた長屋までやって来た。そして椿の咲く場所で偶然ひとりの老爺と出逢い、彼はなんと薫を見るなり突然泣き崩れてしまった。
老爺は椿、椿とうわ言のように繰り返しながら、涙を溢している。訳もわからず、薫は咽び泣く彼を支えて目の前の長屋へ連れ戻した。

所々木の外壁が剥がれ、黴の匂いが漂う長屋である。雑に散らかった部屋に足場を作るようにして、老爺は薫を中に招き入れた。覚束ない動作を見るに、足腰が弱っているようでひどく難儀そうだ。彼は薫に茶を出し、一息落ち着いた所で無礼を詫びた。

「いや……驚かせてしまって、すまんねぇ。外に人の気配がすると思って出てみたら……」

老爺はしゃがれた声で言って、窪んだ小さな瞳で薫を見つめた。

「あんたを見て、娘が帰ってきたのかと思ったんだよ」
「娘さん、ですか?」
「最後に娘を見たのは、もう随分と大昔のことだけどねぇ。あんたは娘の顔立ちとよく似てるよ。目許が涼しげで肌が白くて……母親似の、別嬪だったからねぇ」

今の言葉で、薫は老爺の妻が既に他界していることを悟った。ならば、娘はどうだろう。
彼女はおずおずと、控えめに尋ねた。

「“椿”とおっしゃっていたのは、娘さんのお名前ですか?」
「あぁ、そうだよ」
「あの……娘さんは、今どうしていらっしゃるのですか?」
「…………」

老爺は暫く無言を貫いて茶を啜っていたが、やがてゆっくりと腰を上げた。そして埃を被った古い棚から、紙包みを取り出してきた。
黄ばんで色褪せたその包みを、老爺は大切に大切に手のひらにのせて、薫に見せた。

「こんな冬の寒い日に、娘の生き写しに巡りあうなんて……何かの縁かねぇ」

包みをそっと指で開きながら、彼は伏し目がちに語りだした。

「娘を語るには、“これ”の話をしてやらにゃあ……」



◇◇◇



話は二十年ほど前。色街として有名な地下都市吉原が、まだ地上にあった頃に遡る。
とある江戸の商家の用心棒に、えらく腕の立つ浪人がいた。土佐出身の浪士で、各地で剣術修行を重ねて江戸に流れ着き、浮浪していたところを拾われた。類を見ない居合術の使い手、名は岡田似蔵。

似蔵は雇い主の商人に与えられた屋敷に寝泊まりしながら、暮らしていくのに苦労しない報奨金を受け取る生活を送っていた。彼の故郷の土佐は身分制が厳しく、彼は郷士の中でも最下級の足軽身分で長らく差別的な扱いを受けていた。そんな時代と比べたら江戸はまるで別世界。似蔵は暮らしに不満はなかった。
一方、同じ用心棒として雇われている同僚は、得た報奨金で酒を飲み女を抱くような暮らしを続けていた。似蔵は暇さえあれば剣術修行に勤しみ、得意とする居合の稽古に熱中している。若くて生真面目で世間知らず、報奨金の使い途も知らない似蔵は、同僚達のかっこうのからかいの的で、ある日同僚は無理矢理彼を遊びに連れ出した。

行先は、吉原桃源郷。
周囲の町とはまるで違った雰囲気の、朱色の妓楼が建ち並ぶ色里。夜になると灯火が連なり、三味線の音が小気味良く響いて登楼客の気分を盛りたてる。男が遊女達と歌や踊りを楽しみ、春をひさぐ常夜の街である。

その日訪れたのは、吉原では中堅所の“みなとや”という見世だった。べらぼうな高級店でも、粗野な安見世でもないみなとやは商人や侍の客が多く、似蔵の同僚はそこの馴染み客であった。
吉原では、格の高い大見世に登楼するような場合は引き手茶屋で遊女を選び値段交渉をするが、それ以外のほとんどは大通りから横町に入って、見世で手頃な遊女を選ぶ。横町には張見世という格子のある店が並んでおり、客は外から遊女を選んで中に入るのだ。

だが、色街などに縁がなかった似蔵は、女達の香や白粉の匂いが漂う張見世になかなか近寄ろうとしなかった。見世の格子はまるで檻のようにも見えて、その向こうで流し目を送ってくるきらびやかな遊女達は、まるで違う生き物のようであった。

同僚はますます面白がって、似蔵をからかった。

「おう、そんな隅っこで不貞腐れてねェで、近くに来いや!」
「いや、俺は……」

今まで剣術に生きてきた似蔵にとって、女を買うなどおよそ考えがたく、お節介に極まりなかった。世話になっている年上の同僚の誘いゆえ断れなかったが、適当にやり過ごして帰ってしまおうと考えていた。
似蔵がなかなか女を選ぼうとしないので、同僚は代わりにきれいどころの女を選び、金を遣手に渡した。二人は別々の座敷に通され、台の物(膳の料理)が運ばれて宴の準備が整う。

やがて、遊女が現れた。

「椿でありんす」

遊郭特有の廓言葉だった。艶やかな色使いの赤い着物に、派手な髪飾りを付けている。白粉をはたいて化粧をしており、目鼻立ちのくっきりした顔立ちが際立っていた。微笑むと、肉厚の唇がきれいな弓形を描いた。

「このご縁が続くよう、今宵をいい思い出に」
「…………」

似蔵はただ黙って、自分の手元をじっと睨んでいた。
それから、椿が話をするのに耳を傾け、食事をして酒を飲むうちに、猛烈に眠くなってきた。普段、滅多に酒など飲むことがないからだ。椿が席を外した間に、彼は布団の所まで這うようにして、そのまま眠ってしまった。


そして、夜が明けた。吉原の決まりでは、客は一昼夜以上吉原にとどまってはならないため、遊女は客の朝帰りを送り出す。
椿は似蔵の着替えを手伝い、羽織などを着せて後ろから抱きついた。いわゆる遊女の手練手管で、また来てもらえるような素振りをして後ろから抱きつき、別れを惜しむのだ。

「お侍様、最後にお名前を教えておくんなんし」

似蔵にとっては、逢ってまだほんの少しの時間の経っていないのに、やたら親しく接してくるのが不思議に思えた。世間知らずの若者には、色里の男女の駆け引きなど全くの無縁である。それに、どこの方言ともつかない廓言葉は、耳に慣れずとても奇妙だった。

「岡田似蔵だ」

似蔵はそう答えて、椿を怪訝そうな目で見た。

「この町の女は、皆そんなおかしな喋り方をするのか?」
「はっ?」
「羽織が着れない。どいてくれ」

似蔵は背中に抱きついた椿を引き離すと、挨拶も早々にみなとやと後にした。邪険にされて面食らう椿を残して、急ぎ雇い主の元へと帰路につく。すると彼はふと、頭がすっきりとしていて、いつもより体が軽いことに気付いた。

理由は単純だった。まともな飯を食い、少し酒が入ったところで、ぐっすりと眠ったからである。

用心棒の浪人達の間には、遊びに誘うような親しい同僚もいる一方で、小競り合いや喧嘩の絶えない関係もある。勿論、商売敵の商家の用心棒同士にも衝突がある。寝込みを襲われて怪我をしたという話もよく聞く世界で、似蔵も寝るときは獲物を傍らに置いたまま、すぐに飛びだせるような体勢で眠るのが常であった。

それがどうだろう、遊郭にいれば、誰かに襲われる心配などしなくていい。夜襲の不安から解放され、柔らかい布団で眠るのがこれほど心地いいものなのかと、似蔵はいつもより軽い頭で考えながら、色里の風変わりな楽しみを覚えて帰っていった。


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