鬼と華

□寒椿の追憶 第三幕
6ページ/6ページ


足抜けは吉原の掟破り。遊女だけでなく、荷担した男も牢屋に入れられ、大抵は拷問の末に殺されることが多かった。
似蔵も例外ではなく、吉原の薄暗い地下牢に手枷をされて放り込まれた。そのまま水も食事も与えられず放置され、楼主が似蔵を餓死させようとしていることは、彼自身察しがついた。

凍えそうに寒い地下牢、似蔵は歯をガタガタと震わせながら、体を折り曲げるようにして暖をとった。気を緩めばお終いのような気がして、ずっと目を見開いたまま、椿のことを考えた。
椿はみなとやの折檻部屋に連れて行かれ、安否は分からない。だが仕置きをされるとなっても、遊女は遊郭にとって大事な商売道具である。多少体を痛めつけられることはあっても、大怪我を負わせるまでの仕打ちは受けまい。似蔵はそう考え、己自身を安心させようとしていた。


しかし、その報せは三日目に舞い込んできた。牢屋番が厠へ行って見張りを外した隙、女がこっそり似蔵の元を訪れた。

「これは、アンタが持ってて……」

か細い声が聴こえた。名前は知らないけれど、みなとやで椿が親しくしている姉女郎だということは分かった。
続いて格子の隙間から、似蔵の足許めがけて何かが放り込まれた。

「アンタが書いた歌だろ?あの子のために渡したんだろ……?化粧台の奥にしまってあったよ」

姉女郎が力なく言う。似蔵は手枷をされた手で足許をまさぐった。指の先に紙が触れ、そしてその中に、一束の滑らかな髪の毛が包まれているのが分かった。

何が起こったのかを、似蔵は瞬時に察した。

「ーーーー死んだのか」

しゃがれた声で問いかけると、姉女郎は火がついたようにワッと泣き出した。

「惨たらしいったら、ありゃしないよ……!素直に謝りゃあ良かったんだ、折檻部屋に行ってまで聞かん坊なんてさぁ……ほんとにバカな子だよ……!」

折檻部屋で殴り殺された椿は、その日の夜に簀巻きにされ、近くの寺の裏門に放り込まれたという。遊女の死に葬儀などはなく、死者への弔いもない。最期は実に呆気ないものだった。
みなとやで椿が客を取っていた座敷は、すぐに別の遊女の本部屋とされた。そこで椿と仲の良かった遊女達で、処分される前に椿の遺品をかき集め、形見のものを似蔵に託したのだ。
いつか髪切りの約束を交わした際、椿が己の髪をしたためた、和歌の書かれた便箋を。


姉女郎は用が済むと、泣く泣く恨み言を呟き牢屋を後にする。遠ざかる嗚咽を聴きながら、似蔵はギョロリと目を剥いて、牢屋の隅一点をじっと見つめた。
己の死は、手枷をされた時点で覚悟はしていた。だが、椿は死ぬはずではなかった。死に至るまでの折檻など、他の遊女達への見せしめか、よほどの事情でもなければ行われないはずなのだ。


(誰が殺った)

手枷をされた拳がぶるぶると震えた。

(死なせることなどなかったのに。誰が殺ったーーー誰が殺った)

似蔵の頭に、同じ言葉が繰り返しぐるぐると回り始める。そして何かが音をたててプツンと切れ、その瞬間から似蔵は狂った。

「ーーーーオオオオオ!!」

彼は獣のような雄叫びを上げると、残されたありったけの力を込めて、格子に体当たりを始めた。ガシャン!ガシャン!とけたたましい音が鳴り響く。これまで猫のようにじっと踞っていた似蔵が、突然別人のように暴れだしたので、牢屋番のみならず野次馬が集まってきた。

似蔵は格子が思いの外頑丈なのを悟ると、手枷を格子に向かってぶつけ始めた。手指の皮膚が破れて血が噴き出すのにも構わず、とり憑かれたように拳を振り上げる。

「……オイ、枷が壊れちまうぞ!!」

誰かが叫び、その瞬間に似蔵の手枷は粉々に割れた。自由になった似蔵の姿に、牢屋番は焦って格子に手をかける。

「押さえろ!!外に出すなよ!」
「縄だっ、縄で縛り上げろ!!」

雪崩のごとく牢屋の中に人が群がり、よってたかって似蔵を押さえつけようとした。しかし、似蔵はまるで暴れ牛のようだった。牢屋番を殴り、近付く者あらば踏みつけ蹴り倒し、近付くことさえ許さなかった。
騒ぎを聞き付けて、槍を担いだ若い衆が加勢したが、それこそ逆効果だった。似蔵は彼らから素早く武器を奪い、立ち向かって来る者の胸を突いた。寸分の乱れもなく、心臓をまさに一突き。吉原の者は、似蔵が外で人斬りと呼ばれているなど知らない。刺された者は声を上げることもせず、鮮血を迸らせて次々に倒れていく。

繰り広げられる惨劇に逃げる者もいたが、似蔵は彼らを見逃さなかった。追い掛けて足や着物を掴み、命乞いされるのも聞かずに喉元を槍でかききった。辺りは瞬く間に血の海となり、次々に屍が積み重なっていく。
しかしその惨状は、似蔵の瞳には映らない。彼の瞼の裏側では、ぼんやりと明るい光が灯っては消え、また灯って消えるのを繰り返していた。殺めた者の魂の光が、最期の輝きを放って失われていく。けれど、どれも似蔵の求めているものではなかった。

(これも違う……これも違う……違う違う違う!!)

目が醒めるような紅い光。椿の花弁のごとく、艶やかで美しい光。
女は男を愛し抜き、眩い魂の光を放ったまま、短い命を散らせてしまった。似蔵が欲した光は、永遠に失われたのだ。

やがて、その場にいきものの気配がしなくなると、似蔵は無造作に槍を投げ付けた。牢屋の中に戻り、手探りで紙包みを捜す。幸いにも汚れておらず、きれいなままの包みをそっとしまう。
懐には、椿と分け合った髪を肌身離さず持ち歩いていた。一度分かった髪の束は再び懐で一緒になり、似蔵はその滑らかさを何度も何度も確かめるようにしながら、吉原を去った。


その時の地下牢の惨劇は、後世の吉原に語り継がれるものだったが、誰も似蔵の尻尾を掴もうとは言い出さなかった。あれだけ無惨に人を殺める浪人である、捕まえようとしたら最後、吉原中の地回りの命を捨てることになってしまうからだ。

似蔵はその後、人知れず西の方へと逃亡した。彼が再び人斬り似蔵として江戸の街に現れたのは、惨劇から二十年余りが過ぎた頃。徳川幕府の開国と攘夷戦争、吉原の地下への移転などの激動の時代を経て、当時の出来事が風化しつつある“今”であった。



◇◇◇



「娘の形見だよ」

老爺が薫に見せた紙包みには、一束の黒髪が包まれていた。黄ばんだ紙の内側には墨で字が書かれた跡があるが、何と記されているのかは分からない。それは老爺の娘、椿が他界してから、二十年以上の年月が経過していることを物語っていた。

「椿が死んだと楼主から報せを受けたのは、冬が終わる頃だった。“椿は流行り病で病死した、もう寺に埋葬は済んであるから、御布施を払ってほしい”と……。目の前が真っ暗になる思いじゃった。親の都合で娘を売り飛ばしておきながら、悲しむ資格もない。だが、あの子がどれだけわしらを恨んで死んでいったのか、そう思いながら来る日も来る日も泣いて暮らして……」

老爺は目尻から溢れた涙を拭うと、紙包みをギュッと強く握り締めた。

「だが二十年も経って、突然白髪のお侍が訪ねてきて、この髪の束を届けてくれたのさ。椿のものだと言われて、わしは疑わなかったよ。きっと娘と深い仲にあったんだろうと、そんな風に思っていたが……。それからもお侍はちょくちょくここへ来て、少しばかりの銭を置いていくようになった」
「お金を?」

薫は怪訝に思って尋ねた。愛する人の親とは言え、貧困ゆえに娘を吉原に売った人間である。恨みはすれど、金品を与えるなどどんな道理があるのだろう。
彼女の思惑を察してか、老爺は決まり悪そうに笑った。

「わしも驚いたさ。憎まれるなら理由は分かる、だが金を貰うようなことには何一つ覚えがないからね。でも、あれから何度も……」

その時、朽ちかけた引き戸がギギ、と開き、外から突然何かが投げ込まれた。それはチャリン、と音をたてて地面に落ち、老爺と薫は驚いて顔を見合わせた。
その音で分かった。小銭の入った小袋が、玄関に転がっていた。

「噂をすれば何とやらか」

老爺は苦笑して言った。

「いつもいつも、顔も見せずに金だけ置いていくのさ。一体、何のつもりなんだか……」
「…………」

薫は居ても立ってもいられず、老爺に簡単に挨拶を済ませて外へ出た。
門をくぐったところで、彼女はびくりと肩を震わせ立ち止まる。寒椿の浪人岡田似蔵は、まだそこにいた。彼は垣根から溢れる寒椿の花に手を這わせ、花を愛でていた。

薫がじっと身構えていると、似蔵は唇の端を歪めて笑った。

「いつもと違う匂いがしたと思ったら、これはまた、思わぬ所でめぐり逢ったねェ」

橋田屋では、また子と乱闘を繰り広げた末、薫に紅い光を見たと言って絞殺しようとした危険な男である。
薫は似蔵の出方を警戒しながら、控えめな口調で訊ねた。

「なぜ、この家にお金を渡すような真似を?何を企んでいるのですか」
「企みなんて、人聞きの悪いことを言うねェお嬢さん」

似蔵は肩を揺らして笑うと、瞼を閉じたままの目を家の方へと向けた。

「……昔、アイツが言ったのさ。いつか小さな家で、小さな庭に花を植えて暮らしたいとね。俺にゃあ家なんて持てないんでねェ、せめてアイツの生家だけでも残してやって……望み通り、住まわせてやりたいと思っただけさ」

似蔵には、以前感じた強烈な殺気はなく、口調も穏やかで落ち着いていた。愛する者への供養、そして老いて独り暮らす老爺を思い図ってのことだろうと、薫は考えていた。
一方で、似蔵が寒椿の浪人などと呼ばれ、椿の花を手向けながら人斬りを繰り返すのは、愛する者を奪われたことへの報復だ。遊女の命を奪った吉原の人間へ復讐するため。二十年もの時を経て、彼は人斬り似蔵として再び江戸の街に降り立ったのだ。

「お嬢さん、こんな人気の無い所を、独りで彷徨いていたら危ないよ。いつ辻斬りに遭うか知れないよ」

どことなくからかうように、似蔵は薫に言った。その言葉に敵意や殺意がないのを確信して、薫は聞き返す。

「……また、私の命を狙うのですか」
「さてねェ。俺の気が変わらないうちに、早くお帰り。いつ、またお前さんの魂を消そうとするかも分からんよ」

似蔵はそう言い残して、静かに踵を返した。橋田屋で見た覇気を背負った後ろ姿とは違って、どこか淋しさの漂う、頼り無い背中であった。

似蔵が去った後、冷たい風がひゅうと吹いて寒椿の枝を揺らした。花は彼との別れを惜しむように、風に紅い花弁を震わせていた。



(第三幕 完)
次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ