鬼と華

□寒椿の追憶 第四幕
5ページ/5ページ


晋助が武市から書状を受け取ってから、数日後のこと。新しい船へ移ろうとする日を間近に控えて、晋助はひとりきりでふらりと船を後にした。

向かったのは、江戸郊外の田舎町、人通りの少ない寂れた界隈である。晋助は物陰に隠れて、ある人物がやって来るのを待っていた。
武市の情報によると、かつて吉原で地回りとして動いていた男が極道の下っ端をしているらしく、毎日借金の取り立てにその界隈に現れるらしい。岡田似蔵が次に狙いをつけるのは、どうやらその男という話だった。


暫くして、派手な身なりをした男が歩いてくる。道端へ唾を吐き捨て、素行の悪さが嫌でも目についた。
すると彼の行く先を阻むように、編み笠を被った浪人が颯爽と現れた。白髪で痩身、寒椿の浪人の特徴と一致している。

晋助は物陰から、息を潜めて彼らの様子を窺った。極道の男は、唐突に現れた浪人を見るなり忽ち青ざめ、狼狽している。
口論でも始めるのと思いきや、浪人は徐に刀の柄に手をかけ、身を屈めた。その次の瞬間だった。

「…………!」

浪人は太刀筋が見えないほどの、居合いの早業を繰り出した。極道の男は逆袈裟に斬られ、声をあげることもなく、鮮血を噴き上げながら仰向けに倒れる。
まさしく一瞬の出来事。晋助は思わずごくりと唾を呑んだ。初めて万斉の抜刀術を目にした時と、等しい程の衝撃が貫いた。

万斉の言ったことは間違っていなかった。剣に生きる者の太刀筋には、迷いがない。斬るというたった一つの目的で、狙った獲物を確実に仕留めに行く。その所作は一寸の無駄もなく、美しささえ感じる。

彼なら……岡田似蔵なら、例の生きた剣を持たせるのに相応しい人物かもしれない。じわりじわりと期待が膨らむのを感じながら、晋助は物陰から一歩を踏み出した。


似蔵は鮮血の滴る刀身をそのままに、斬り捨てた男をじっと見下ろしている。だが、暫くしてふっと顔を上げた。

「そんな小せぇモン壊して、満足かい」

晋助が似蔵の背後に歩み寄り、声をかけたのだ。

「どうせ壊すなら……どーだい。一緒に」

似蔵は晋助の気配をじっと窺いながら、鼻用洗浄液を懐から取り出し鼻腔に突っ込んだ。ブシュと音をたてながら、怪訝そうに首を傾げる。

「……アンタの匂い、どこかで嗅いだねェ。さてはて、何処で逢ったのやら……」

晋助は唇の端を歪めて笑った。どうやら鼻が利くというのも本当らしい。
これだけ距離を置いていても、似蔵の鼻は羽織に染み付いた煙草の匂いをとらえたのだろう。薫にも、多少なりとも同じ匂いがついていたのかもしれない。

「俺の仲間が橋田屋で世話になった。ひとりは武器を壊され、もうひとりは、興奮したアンタに首を絞められたらしい」
「ああ、それは悪いことをしたねェ」

似蔵は薫達のことを思い出したようで、肩を揺らして笑った。

「しかしアンタ……一体、俺に何をさせようと言うんだい。見ての通り、俺の目はひとつの光も捉えられないモンでねェ。盲目の人斬りに出来ることなど、人斬り以外何もないさね」
「アンタの目は、常人じゃあ見れねェ光を見ることが出来るそうじゃねェか。俺の連れに、光を見たと聞いたぜ……椿のような、紅い華の光を」

“椿”、という言葉に、似蔵の眉がぴくりと動く。晋助は続けた。

「枯れた冬景色の中、血のような真っ赤な花を咲かせやがる。男は単純な生き物だ。人目を引きつける椿のような、圧倒的なまでの色や美を持つ女に惹かれるモンさ。
……だが、あんたはそんな表面的な理由で女を愛した訳じゃねェだろう。生きざまや信念、人となりを……その女の本質を、魂を愛したんだろう」

似蔵はそれを聞くなり、ふっと笑みを溢した。

「……真に誰かを愛する女というのは、皆おしなべて、同じ魂の光を持つものかねぇ。確かに、あの女の中にも俺は紅い光を見た。ありゃあ、アンタのものだったのかい」

それから名案を思い付いたように、声の調子を上げて言う。

「アンタの情婦を俺にくれるんなら、誘いに乗ってやってもいいがねェ」
「寝惚けたこと言うんじゃねェよ。死んでからもなお思い続けるような女がいるなら、その代わりなんていやしねェ筈だ」

晋助は鼻で笑った。

「お前が辻斬りを繰り返すのは、女の為……報復の為なんだろう。女を死に追いやった連中を女と同じ目に遭わせて、仇を取ったつもりでいるんだろう」
「…………」

似蔵は口をつぐんで、閉じた瞼で晋助を睨んだ。

「だが、悪いが俺にゃあただの悪足掻きにしか思えねェな。力が及ばなくて女を救えなかった、お前はずっと己を責めているんじゃねェのか。だから今になって、再び人斬りとして江戸に舞い戻り、剣を振るうんだろう」
「黙れ……」

似蔵は低い声で呟き、拳を強く握り締めた。

「お前の目が一番知ってる筈さ。女の光を失ってから二十年、その目は何を見てきた?暗闇の中をさ迷ってるだけじゃあ、死人は帰ってきやしねェ」

似蔵の目がカッと見開かれた。晋助の挑発に、彼の怒りは急激に膨れ上がった。
辻斬りを繰り返すのも、薫の光を欲したのも、死んだ女の面影を追い続けているから。勝負や剣に異様なまでの拘りを持つのは、それを無くしたら生きる道を失うから。

万斉は似蔵に対して、圧倒的なまでの力への欲求を感じたと言っていたが、それは力を得て覆したい何かがあるのだ。似蔵の脆い一面を、晋助は巧みに見抜いていた。

「お前が執着してるのは最早、女じゃねェ。己の弱さじゃあねェのか」
「黙れェェェェェェ!!」

似蔵は激昂して晋助に飛びかかった。刀の柄に手をかけ、間合いに入った瞬間に剣を抜く。俊速の抜刀術。
真横に薙ぎ払った似蔵の剣は、確実な手応えを持って晋助の首を跳ねた。首は血飛沫を撒き散らしながら宙に飛び、弧を描いて道端に転がる。

「ハア……!ハア……!」

燃えたぎる怒りをぶつけた一刀だった。似蔵は肩で息をしながら鮮血のついた剣を一振りし、鞘に収めようとした。

だが、彼は息を止めて立ち竦む。
鍔から下、あるはずの刀身がそこにはなかった。

「ーーー!」

冷たい刀身が、首筋にひたりとあてがわれる感覚。似蔵の背中に冷や汗が流れ、彼は瞬時に敗北を悟った。
紫煙の香りが蛇のようにまとわりつき、耳のすぐそばから、冷酷な声が響く。

「盲目を盾にして闘うやり方は、悪いが俺には通用しねェよ。生憎、俺も片眼をなくしてるモンでね」
「…………」

似蔵と対峙した万斉に言わせれば、盲目の剣士だと悟った時点でこちら側が不利になる。見えないはずだという思いが油断と隙を生み、似蔵はその瞬間を狙って一太刀を撃ち込んでくるのだそうだ。
しかし隻眼の晋助には、似蔵の思惑など手に取るように分かる。隙が生まれる余地はないのだ。

晋助を斬った、それは似蔵の脳裡が描いたイメージに過ぎなかった。似蔵の刀身は晋助によって、粉々に砕かれていた。

(首をはねたと思ったが……あの手応えは、刀を交えた時のものだったってのかい……)

似蔵は息を殺すようにして、じっと考えた。思えば、人を斬った瞬間に浮かぶ魂の輝きもなかった。それどころか、晋助の声がする方からは、ぼんやりとした篝火のような明かりが絶えず灯っている。

(この男……生きながらにして、死者のような光を……?)

やがて、晋助は似蔵から刀を離して、己の鞘におさめた。キンと澄んだ音が響いて、彼は羽織を翻し似蔵に背を向けた。

「気が向いたら、俺達の船に来な。女よりも、いいモノをくれてやる。俺達と一緒に……」

笑い混じりに言い、立ち尽くしたままの似蔵へ最後の言葉を残す。

「お前の闇を……世界を、ブッ壊しに行かねェか」

晋助の去った方へと目を向けた似蔵は、ハッとして目を見開いた。その男は、先程よりもはるかに目映い、煌々とした魂の輝きを放っていた。


「刀を、砕かれちまったねェ」

似蔵はハハ、と乾いた笑い声を漏らし、その場に膝をついた。
瞼には、晋助の放つ光が焼き付いている。長らく闇の中にあった似蔵にとって、その光は強烈だった。ただ眩しいだけではない、ひどく不安定で攻撃的で、そして哀しい色を併せ持っていた。

「あれほど、眩しい光を見ちまったら……」

忘れることなど、到底できそうにない。


きっと晋助の光に惹かれるように、彼の回りには人が集まるのだ。彼の光を前にすれば、明かりを求めて羽ばたく蛾になったも同然。体の本能が、魂が光を欲するようだった。

こうして、長らく闇に包まれた人斬り似蔵にとって、晋助は煌々と燃える篝火となったのだ。




(第四幕 完)
次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ