鬼と華
□寒椿の追憶 第五幕
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人斬り似蔵、そんな異名を持つ浪人が鬼兵隊に加わったという噂は、瞬く間に船を駆けめぐり隊士達に知れ渡った。
そこで激怒したのは、また子である。
「一体何考えてるんスか!?」
彼女は万斉を捕まえて、怒りを爆発させた。
「晋助様も万斉先輩も寛大過ぎるッス!だって、私達に危害を加えた変態野郎ッスよ!?だいたい……ぶっ」
「喧しい」
唾を飛ばして喚くまた子の口を、万斉は手のひらで塞いだ。
「お前の大声は船中に響くでごさる。少しは口を謹め」
「〜〜〜万斉先輩!この船に人斬りと呼ばれる男はふたりも要らない筈ッス!まさか、アイツの所業をキレイさっぱり忘れて水に流すつもりッスか?!」
「勘違いするな。拙者の負傷とお前の二挺銃を引き換えにしても、十分釣りがくるお役目を、晋助は奴に与えたでござる」
「……役目って……何ッスか?」
訝しげに尋ねるまた子に、万斉は含み笑いをしたきり何も言わなかった。答えは一口(ひとふり)の剣が握っている、だがそれが明るみに出るのは、まだ先のことである。
その頃、岡田似蔵は晋助から与えられた剣を傍らに置き、甲板の端の方でじっと船の様子を窺っていた。
頻繁に行き交う船員達の声、波が風にさざめく音。油の匂いや潮の香り。聴覚や嗅覚に、実に様々なものが訴えかけてくる。その為か、絶えず向けられる隊士達の畏怖と好奇に満ちた視線は、似蔵にとっては何とも気にならなかった。
そうしているうちに日は傾きかけ、夕暮れ時を迎えた。相変わらず、似蔵は甲板の隅に座ったままである。
薫は陰からちらちらとその様子を窺ってはいたが、一体、いつまでそうしているつもりなのかと気になり始めた。
防寒の肩掛けを羽織って外に出ると、彼女は控えめに似蔵に声をかけた。
「……あの。そろそろ中に入られてはどうですか」
似蔵は声の主が薫であると悟ると、口角を微かに上げて声のした方へ顔を向けた。
「いや、そろそろお暇するよ」
「?こんな時間から、何処かへ出掛けるのですか」
「橋田屋の旦那の所へ、戻らにゃいかんのでね」
訊けば、似蔵は鬼兵隊の仲間となり船を出入りしながらも、橋田屋の用心棒を続けるそうだ。
用心棒としての稼ぎが幾ばくかでもあれば、彼が愛した遊女のため、そして今なお独りで住まう老爺のため、彼女の生家を残しておけるからだろう。事情を知る晋助なら、用心棒を続けることを止めはしない筈だ。
似蔵は徐に立ち上がると、傍らに置いた刀を腰に差した。以前のような殺気や狂気は感じられず、どこか吹っ切れたような身軽さが漂っている。
また、ただでさえ痩身なのにまた少し痩せたようにも見える。冷え込む夜が続くというのに着流しの襟ぐりを広く開けたままで、見るからに寒そうだ。
薫は迷ったが、自分の肩掛けを掴むと似蔵に手渡した。
「夜風が冷えますよ。良かったら、使ってください」
似蔵は受け取ったものが肩掛けだとわかると、襟巻きのように無造作に首に巻き付けた。そして短く、ありがとう、と薫に言った。
彼女の肩掛けは、紅い色をしている。
それは人斬りと呼ばれる男には似合いの色であり、彼が愛した椿、その花と同じ色だ。目の見えない似蔵にとって、実際に目に映る色彩などは何の意味もないかもしれない。だがその代わり、彼には普通の人間は見ることの出来ないものを見ることができるのだ。
片眼をなくした晋助が、将来(さき)を見据えて光を見出だすのと同じように。似蔵も、彼だけが見えるものを頼りに道を選び、進むことができる。
晋助は師匠を、似蔵は愛した女を。お互いに人生のかけがえのないものを亡くした。彼らの闇は、どこかで深い部分で通じている。彼らが出逢い共鳴し合うことは、必然のような気がした。
「似蔵さん」
船を降りようとする似蔵を見送りながら、薫はふとあることが気になり、彼の背に向かって訊ねた。
「私の魂は、紅い色をしていますか?」
似蔵は、閉じた瞳で暫くの間、じっと薫を見つめていたが、ふっと笑みを溢して言った。
「不思議だねェ。この間は確かに鮮やかな紅い色をしていたが、今は少し赤みが挿すような……いや、むしろ淡くて白っぽい。まるで桜の花弁のような、優しい色をしているよ」
「桜の……」
薫は呟いて考える。
似蔵の見る魂の色が本物だとしたら、晋助が言ったとおり、己の魂は本当に、四季の花を映すように色を変えるのだろうか。
似蔵は、からかうように薫に言った。
「魂をすり替えでもしたのかい?それとも、隻眼の侍から他の男へ、心移りでもしたかい」
「いいえ」
そんなことを訊かれるとは思わなかったので、薫はクスクスと笑った。
夕暮れ時の風にのって、どこからか桜の花弁が運ばれてくる。それは甲板の上をくるくると舞い、海風でまた宙へと舞い上がる。
手のひらに落ちてきた花弁を眺めながら、薫は微笑んで言った。
「椿の花は散ってしまったけれど……今はきっと、桜の花が綺麗に咲いているでしょうね。
冬はもう、終わったんですもの」
◇◇◇
薫の言ったとおり、江戸の街の至るところに桜の花が咲いていた。風が吹く度にひらひらと花弁を飛ばし、微かな甘い匂いを漂わせている。
船を降りた似蔵は、人通りのない往来を歩き江戸の街中へと向かった。すっかり日が落ちて、夜空に浮かぶ明るい満月が、彼の行く先を照らしていた。
腰に挿した刀に、そっと手を這わせてみる。柄を握り感覚を研ぎ澄ますと、上質な鮫皮と柄糸の感触が手のひらに馴染んでくる。それはとても懐かしい感覚で、手触りのよい、滑らかな女の肌のようでもある。薫から借りた肩掛けは微かに香の匂いがして、まるで女に触れているかのような錯覚に陥りそうになる。
刀は己にぴったり寄り添って、魂を細かく震わせる。
椿の魂が、恋い焦がれた紅い光が、側に戻ってきたような気がした。
(これが、“紅桜”……)
刀身を抜き、目の前に翳す。月光を映してゆらり、ゆらりと輝く刀身の存在感は、盲目の似蔵にも感じられるほど圧倒的だった。
闇の中にあって、刀の輝きは紅い色をして眩しい。生き物のように血が巡り、脈打っているようでもある。
晋助という篝火の許に、未だかつて、これほどに耀く光を伴った剣士は存在しただろうか。この刀は尋常ではない、それは手にした瞬間から感じていた。共に強大な力を得て、いずれはあの男の隣で闇を切り開く。その剣となる役目を担うのは自分だと、似蔵はそう確信した。
この剣と共に行くのだ。力を求めて、新しい世界へと。
「さァ行こうか、紅桜よ……」
桜の花弁が舞う夜闇へ向かって、彼は紅桜を手に、ゆっくりと歩き出した。
(寒椿の追憶 完)