鬼と華
□花兎遊戯 第五幕
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それから薫は貪るように眠った。幽閉されている間の、細切れだった浅い睡眠を埋めるような深い深い眠りだった。
ふいに目覚めたのは、船に戻ってから半日が過ぎてからだった。船と言えど我が家に戻ったような安心と相俟って、ぐっすりと眠りこけていたらしい。
「晋助様……?」
ぼんやりとした頭で名前を呼ぶ。起き上がると、彼の唐草紋様の羽織が肌掛けに重ねて掛けられてあるのに気付いた。
手繰り寄せて口許に当てると、仄かな煙管の残り香がする。恋しい匂いだった。一晩強く抱き合って、仲違いしたことも牢屋に閉じ込められたことも、記憶の彼方に追いやられてしまった。
部屋に彼の姿はない。眠る前まで一緒にいたのに、今すぐに顔を見たくてどうしようもなくなる。薫は急いで髪をとかして肌襦袢を身に着け、衣紋掛けに手を伸ばした。
すると、いつぞや衣装箱から見つけた、花兎紋様の着物が目に留まった。
(やっぱり、きれいな色だわ)
白緑色の上品な地色は、若い木の葉のような瑞々しさだった。地模様の花兎は、古来から伝わる格調の高さの中にも愛らしさがある。
初めて袖を通してみると、姿見に映った自分の姿は、いつもよりぐんと大人びて見えた。
部屋から出て操舵室に向かう途中、ちょうど通路の向かいから、晋助と武市が歩いてくるところに出くわした。
「おお!薫さん!!」
武市が大袈裟に両手を挙げてやってくる。
「ご無事でよかった!もし薫さんに何かあったら、私は責任をとって腹を切らねばならないところでした!」
「せ、切腹?何故ですか!?」
二人のやり取りを見ながら、晋助が声を出さずに笑っている。
ふと彼と視線が合い、薫は急に顔を合わせるのが照れ臭くなった。夜の睦事を思い出せばなおのこと、向かい合うのが恥ずかしい。
隠れるようにじっと俯いていると、武市が彼女の着物に目を留めた。
「おや。いつぞやの花兎紋ですな」
衣装箱からその着物を見つけた時、武市も一緒だった。花樹の下に耳を立てた兎の姿、その紋様を、花兎と教えてくれたのは武市だった。
どこで手に入れたものかと彼に訊かれたが、彼女は心当たりがなく、晋助にしても何処で手に入れたのか覚えていないだろう、彼女はそう答えた。しかし、
「随分古典的な紋様のお召し物ですが、何処でお求めになったのです。晋助殿」
と、武市が晋助に訊ねる。薫ですら知らないことを、晋助が覚えている筈はない、そう思いながら晋助を見ると、
「……昔、京にいた頃だ」
と、彼は懐かしそうに目を細めた。
「呉服屋が揃えていた色無地の中で、一際目立っていい色をしていた。初夏の暑い日に、そこだけ若い新葉が芽生えて耀いているようだった」
だが、と晋助は苦笑して続けた。
「袷は夏には着れねェだろう。次の春が来るのを待って渡そうと思っていたが、結局渡しそびれて、長いこと箪笥で眠っていたらしいな」
「……晋助様……」
彼は満足そうに微笑んで、羽織を翻して先に歩き出した。
悠々と歩く後姿を目で追っていると、武市が小さな声で言った。
「杞憂でしたな」
「……そのようですね」
「晋助殿は覚えていましたよ。……いえ、忘れていても、きっと思い出すでしょう。大切なあなたへ、贈ったものですから」
薫は裾の白緑色を、眩しいものを見るような思いで見つめた。
これまで共に過ごしてきた年月を、色鮮やかに織り成すように。晋助から贈られた反物や着物は、薫の手元で大切に大切に、端々の記憶を飾っているのだ。
彼は綺麗だとも似合うとも云わなかったけれど、この白緑色の向こうに、京で過ごした頃の同じ景色を見ている。
幾年かの年月を経て、偶然見つけた花兎。この先纏うたびに、宇宙で出逢った様々な人々や、稀有な出来事を思い出させるだろう。巡り合わせというのは何とも不思議で、奇妙なものだ。
「武市様、地球へはどのくらいで着きますか」
「さてはて。長い宇宙の航海になるでしょうな」
無数の星が広がる宇宙、その先に地球がある。
薫の故郷の青い星、そこで再び巡り合う時には、きっとまた、兎との戯れ遊びが待っている。
(花兎遊戯 完)