鬼と華

□黄鶯開v 第一幕
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母親の名前は、サキといった。この村に住む女性で、家に帰れぬ事情があり、暫く加賀山邸で過ごすのだという。

出産後は暫く安静にして様子を見るので、サキは初乳を飲ませた後、奥の座敷で横になっていた。そして赤子はおくるみにくるんで暖かい場所に寝せ、薫が様子を見ていた。

(なんて、小さいの……)

船で過ごすことが多い薫にとって、間近で赤ん坊を見たのは初めてのことだった。
本当に、何もかもが小さい。周りの空気が少し動いただけで、絹糸のような細い髪がふわふわと揺れる。小さな手は精巧な作り物のようにも見え、時々何かを掴みたがるように閉じては開いてを繰り返している。

恐る恐る、手のひらにちょん、と触れてみる。すると小さな手が、ぎゅっと彼女の指を掴んだ。仕草の愛らしさに胸が躍るが、同時に、手の皮膚が青白く、冷たいことにぎくりとした。

「先生!先生!」

薫は急いで加賀山を呼び、焦って伝えた。

「赤ちゃんの手足が青白くて冷たいのです……!大丈夫かしら……」
「ああ、心配いらねえよ」

加賀山は笑って、赤ん坊の背中にそっと手を差し入れた。

「赤子ってのは体温をうまく調節できねえんだ。だから手足の血管を細くして、体の中央を暖めようとしてるのさ。ホラ、背中に手ぇ当てて、触ってみな」

彼に言われた通り、恐る恐る赤ん坊の背中に触れてみると、確かに暖かい。トク、トク、と息づいている感覚がする。体内に熱を集めて、熱が逃げていかないようにしているのだ。

赤ん坊は肌に触れられても動じず、安らかに眠り続けている。瞼は閉じているが、鼻筋がくっきりとして、赤子ながら凛々しさを感じさせる顔立ちをしていた。

「先生。サキさんと赤ちゃんは、いつまで此処にいらっしゃるのですか」
「床上げまでだろうな」

床上げとは、産後の体力がある程度回復するまでのことを言う。

「では、それまで先生がサキさん達のお世話を?」
「うーん……」

加賀山は顎の無精ひげを撫でながら苦笑した。

「産後の手伝いは、隣組の若い娘さんに頼んどいたんだ。でも、便りがなくてなあ……。ここいらの連中は、冬は畑が出来ねえから都会の方に出稼ぎに行くんだが、どうにも街から戻ってこねえんだ。男でも出来たんだな、ありゃ」
「まあ……」

加賀山一人で、家のことから何から世話をするのも難儀であるし、サキも男性が相手では気を遣うだろう。薫は思いきって提案をした。

「あの、先生。ご迷惑でなければ、明日お手伝いに来ても構いませんか」
「へっ?……だって薫ちゃん、晋助さんと会津(こっち)に来てるんだろ。そりゃあ申し訳ないよ」
「床上げまでずっと伺うのは難しいですけど、先生にはお世話になってばかりですもの。お手伝いさせてくださいな」
「いいのかい?俺は、願ったり叶ったりだけど……」

必死に頑張っていたサキの力になりたいという思いもあるし、赤ん坊をもう少しの間、見ていたいという気持ちが強かった。それに静養とは言いつつも、晋助が何の用もなしに会津まで来るはずがない。数日くらい手伝いに出ても、咎められることはないだろう。

薫は浮かれた気持ちで身支度をして、加賀山に頭を下げた。

「では、また明日の朝に。失礼します」

だが玄関の引き戸を開けた瞬間、ドン、と薫の肩に何かが強くぶつかった。驚いて顔を上げると、片眼鏡をかけた背の高い男が立っていた。

「さ……佐々木さん」

加賀山が狼狽えた声を出す。佐々木と呼ばれた男は、じろじろと疑わしそうに薫を見下ろしていた。片眼鏡の向こうの瞳が、鈍く光っている。

「加賀山先生。このお方は?」
「……知り合いの娘さんさ。おっ母の代わりに、俺が手伝いを頼んだんだよ」

加賀山は、話を合わせてくれ、という視線を薫に寄越してくる。その時、彼女はハッと勘付いて手を合わせた。

「もしかして、サキさんの御主人様ですか?この度はおめでとうございます!」
「違いますよ。ただの親戚のオジサンです」

佐々木は薫をあしらって屋敷に上がった。そして火鉢の側で眠る赤ん坊の側に跪き、恭しく頭を下げる。

「無事に生まれましたか。早速、文を出しておきましょう」

彼は懐から携帯電話を取り出し、素早くメールを打ってから、

「では、後のこともよろしくお願いします」

加賀山に一礼して、屋敷を去っていった。
薫は加賀山とともに彼を見送ってから、もう一度赤ん坊の寝顔を眺め、旅籠への帰路についた。


とても、いい一日だった。子どもの誕生というのは、何と喜ばしく、胸が熱くなることだろう。子どもを産み落とす母も、自らの意志で産まれようとする子も、神聖で尊い。
赤ん坊を胸に抱き、慈愛の眼差しを向けるサキの表情は、神々しいほどに美しかった。

(私もいつか、あんな風に……)

薫はふと立ち止まり、己の下腹に手を当てた。自分にも、子どもを宿すことが出来るのだろうか。命を懸けて、子どもをこの世に送り出すことができるだろうか。

彼女がそう思うのには理由がある。彼女は加賀山に処方してもらった薬を、毎朝欠かさずに飲んでいる。異国から伝わった錠剤で、それは体内の女性ホルモンの濃度を上げ、妊娠しているような状態を作り出す作用がある。つまり排卵を抑制する、避妊のための薬だ。

彼女自身、晋助との子を望まない訳ではない。だが、鬼兵隊が壊滅し、世界に復讐を誓ったあの時から、彼女の道は決まっていた。晋助と共に、獣の道を行く。
もし二人の間に子どもが出来たとしても、その存在は、復讐を遂げようとする彼の、足枷にしかならないような気がするのだ。



(第一幕 完)
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