鬼と華

□黄鶯開v 第三幕
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夜、宿の者が眠りにつき、旅籠はしんとした静寂に包まれた。だが、薫はいつまでも眠れずにいた。
話し合え、そう万斉に言われたものの、肝心なことを切り出せない。彼女自身の願望を伝えたとして、果たして晋助は何と言うのだろう。
子どもを望むなら京へ。彼女自身の安全を思って晋助はそう言ったのだろうが、関与せずに突き放すようにも思える。本当は彼は、子どもの存在など望まないのではないだろうか。何度も何度も繰り返し、同じことを考えてしまう。

(ちゃんと、晋助様に訊かないことには、何も始まらないのに……)

加賀山邸では子守を手伝い家事をこなし、それなりに疲れているはずなのに、考え事をしていると妙に頭が冴えてしまう。体を休めなければ明日がつらいと分かっている。眠らなければ、と彼女が寝返りを打ちながら身動ぎしていると、

「……まだ、起きているのか」

隣の布団から、晋助の声がした。その声が普段の通り明朗で、彼もまた眠れずにいたのだと知る。

「色々と考え事をしてしまって……眠れないのです」
「何を考えている?」

晋助はそう言うと、自分の布団を避けて、薫の背中に寄り添った。
彼女は夜が明ければまた、サキと久久に会いに加賀山邸に行くつもりでいた。この間のような乱暴をされるかと思い、身を強張らせて彼を遠ざける。

「晋助様、や……」
「何もしねェよ。お前が痛がることは、もうしねェ」

彼はくぐもった声で言い、薫の背中に額を強く押し当てた。

「……お前に、触れさせてくれ」

切なく乞い願う声がする。薫が体の力をふっと抜き、晋助に身を預けると、彼は両腕を回して彼女をきつく抱き締めた。背後から聴こえる息遣いに耳を澄ませ、目を閉じる。

残雪に囲まれた旅籠は、夜が更けるごとにぐんと冷えていく。静まりかえった夜更けには、まるで世界に一人だけ取り残されたようだ。
この数日、晋助は旅籠で独り、何を思って過ごしていたのだろうか。

薄闇を探るように手を伸ばせば、晋助が彼女の手を捉えて、しっかりと握り返してきた。芯まで冷えてしまった、ひんやりとした手。

(なんて、冷たい手なの……)

手が冷たいのは、心が温かいから。でも、こんな冷たいままの肌では、あまりにも憐れだ。側にいて、僅かな温もりを分け合って、こうして暖めてやらなければならないのに。どうして彼を、独りきりにしてしまったんだろう。

薫は彼の手を、両手でしっかり包み込んだ。

「晋助様。……私は、ここにいますよ」

そう声をかけると、あァ、と短い答えが返ってきた。彼の息は熱を持って、声は微かに震えていた。
堪らずに後ろを振り返ると、彼の濡れた瞳と目が合った。暫くの間見つめあい、どちらからともなく、そっと唇を合わせる。

「晋助様……」

名前を呼ぶと、彼の手が薫の両の頬を支えて、再び唇を重ねてきた。何かを伝えたい、でも言葉にならない、そんな想いをのせるように、啄んでは離れていく唇を追いかけて、彼女は自分から口づけをした。
首に腕を回してすがりつき、何度も何度も、唇を繋ぎ止める。そうしているうちに、彼女の目から、ぽろぽろと涙が零れた。

こんな風に心を許せるのは、この人しかいないのだ。これから先、もし他の誰かと人生を歩むことになっても、死ぬまでこの人を想い続けるだろう。
そう思えば、晋助の子どもを望むことも、彼と一緒にいたいと願うことも、どちらも薫にとっては等しく強い願望で選び難い。

彼女の目尻から溢れる涙を、晋助が親指でそっと拭っていく。その手がひんやりと冷たいことに、またその仕草がとても優しいことに、彼女はまた涙した。


暫くの間泣き続けたせいか、薫の瞼はしだいに重くなってきた。寄り添って感じる体温が心地好く、眠気が強くなる。もう、瞳を開けていられない。
彼女は晋助の肩のあたりに頭を預けて、だんだんと意識が薄らいでいくのを感じていた。

その時、独り言のように、晋助が呟くのが聴こえた。

「……お前の望みは叶えてやりてェが、叶えられねェこともある」

彼が話すたびに、触れ合った肌を通じて振動が伝わる。それすら彼女にとっては子守唄のようで、眠りへと誘う。

「お前が本心で何を思ってるか知れねェが……俺は……」

彼が最後まで言うのを待たず、薫は眠りの中に引きずり込まれるようにして、ふっと意識を手放した。

「何があっても、お前を手離したくねェよ……」



(第三幕 完)
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