鬼と華

□黄鶯開v 第四幕
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「……今、何とおっしゃったの」

暫くの間をおいて、薫はそう尋ねるのがやっとだった。
異三郎はサキと久久の側から離れると、部屋の隅に正座をし、重い口を開いた。

「私の妻は会津で子を産み、江戸に向かう途中、賊の襲撃によって命を落としました。当時の将軍、定定の……天導衆(てん)の企てた一件を謀った報いに、私は妻子を失ったのです」

薫は目を見開き、口許を両手で覆った。そうしなければ、あまりの衝撃と動揺に、声をあげてしまいそうだった。
それとは対照に、異三郎はいたって冷静に、淡々とした口調で語り続ける。

「私も小さな温もりを、この手で抱いてみたかった。何の罪も知らない、純な寝顔をこの目で見たかった。妻と二人で見守るはずだったのです。あの子が育っていくさまを」

彼は久久の寝顔を遠目に眺めながら、両手で何かを救い上げるように、丸い形を作って見せた。

「生きた我が子の顔を、私は一度も見ていません。無残に刻まれてしまって、こんな……こんなに小さな壺に収まって、今もこの地で眠っています」

薫は耐えきれなかった。口許を押さえたまま、部屋を飛び出した。扉が閉まるなり、嘔吐の混じったような、声を押し殺して噎び泣く声が聴こえてくる。

誰に聞かせるでもなく、異三郎は暗い瞳で呟いた。

「あの時代から、何も変わってはいません。何の罪もない人間が、未来のある小さな芽が摘まれてしまう。奪われた者はまた奪い返そうとし、憎しみは終わらない……」

晋助はただ、彼のか細い声が、薄闇に消えるように響くのに耳を傾けていた。
サキと久久の命を狙ったのは、ただの田舎の攘夷浪士の仕業ではない。定定か天導衆か、一橋派の発展を阻もうとするものの画策だと、彼は確信した。

男児の誕生、それは家の継承には最も重要なことで、将軍ともなれば世継ぎの誕生がことさら強く求められる。だが、現将軍茂茂は妻を娶ることも、側室を持つことも拒んでいた。定定からしてみれば、政権奪取を目論む一橋派に跡継ぎが生まれたとなれば、政権の存続を脅かす分子がひとつ増えたことになる。
政敵を崩すには、まず弱い所から。仮に殺害の疑いが及んでも、過激派攘夷浪士による不幸な暗殺事件だと、煙を巻いてしまえばよいのだ。

異三郎は見廻組を立ち上げ、次期警察庁長官と推される信頼をも集め、幕府での己の地位を盤石なものとしつつある。一橋派による新政権樹立のために邁進する異三郎もまた、定定にとっては邪魔な存在でしかないのだろう。定定、天導衆と異三郎の間には、政敵以上の確執があったのだ。


「佐々木……あんたは一橋斉斉に取り入って、一橋派の勢力を定定に対抗できるまでに拡大した。それは一橋家の為でも、あんた自身の地位の為でもなく、妻子を殺めた復讐をするためだったというのか?」
「国に抗い、己の道を通そうとした報復に、私は妻と子を失ったのです。私が斬らなければならないのは、天導衆でも、その傀儡の老狸でもありませんよ」

異三郎は、眠る母子を照らす行燈の明かりを、瞬きひとつせずに見つめていた。彼の瞳の奥では、それは憎しみの炎となって、昏く揺れていた。

「私の敵は、惨たらしい蛮行が国によって行われるこの時代そのもの……そして、何も守れなかった自分自身です。身を裂かれそうな憎しみに噎び泣く人間は、私ひとりで十分ですから……」



(第四幕 完)
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