鬼と華

□黄鶯開v 第五幕
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出立の日は、青く澄みわたった晴天であった。
会津は四方を山に囲まれた盆地である。北東に望む飯盛山の裾にはうっすらと霞がかかり、春らしい長閑さを感じさせた。その向こうには、雪を被って真っ白なままの、磐梯山の山頂。それはまるで雪の果てを見送った冬の象徴のようで、会津の地を見おろしつつ、春の訪れを祝福しているかのようだ。


早朝、旅籠から、唐草紋様の黒い羽織と、牡丹の花をあしらった長羽織の男女が、仲良く肩を寄せあって宿を後にした。そして日が昇って暖かくなった頃、駕籠を担いだ一行が旅籠へ到着した。サキと久久を、江戸まで護送するための駕籠である。

「咲様、ご準備はよろしいですか」
「ええ」

異三郎の出迎えで、旅籠からサキが現れた。日よけに頬かむりをして、腕に大事そうにおくるみを抱いている。
従者に手を引かれるように、彼女が駕籠に乗り込むと、異三郎が出立の合図をした。

「さあ、参りましょう」

一行は旅籠を後にし、江戸へと進む。従者達は皆、見廻組の隊士達である。彼らは駕籠を取り囲むように歩きながら、絶えず周囲へ目を光らせた。
何せ駕籠の中には、無事江戸まで送り届けねばならない、一橋家の側室のサキ……ではなく、頬かむりをしたその下に、彼女に扮した薫の顔があった。



◇◇◇



出立の三日前のことだった。サキと久久を無事に一橋邸に送り届けるため、晋助と薫、サキは結託して一計を案じ、その策を密かに異三郎に伝えた。

「入れ替わるですって?咲様と薫さんが?」

普段滅多に表情を変えることの少ない異三郎だが、この時は片眼鏡の奥の目が点になっていた。
薫は異三郎を正面から見据え、声を潜めて言った。

「もし襲撃者の残党が残っていたとしたら、江戸への帰路を狙って襲撃してくるはずです。サキさんは久久ちゃんと一緒に、鬼兵隊の船で空路で江戸に戻っていただきます。そして賊の目を反らせるために、駕籠で向かう一行を偽装するのです」

駕籠にはサキの身代わりに、薫が乗る。一行が会津を抜ける頃には、サキと久久は船で江戸に到着、一橋邸で保護されるという算段である。

「同じ轍を二度踏むのは御免です。私は、誰にもつらい思いをしてほしくありません」
「いや、しかし……」

突然の提案に異三郎が困惑していると、サキが言った。

「異三郎。何度も私の我儘を聞いてもらって、申し訳なく思うわ。薫さんにも、危険な役目を任せてしまうけれど」

彼女は薫へと、頼もしいものを見るように目を細めた。

「でも、薫さんに説得されました。薫さんのお仲間には、百の襲撃があったとしても、必ず私達を護ってくださる御方がいらっしゃるんですって」


そうして早朝、サキは薫の羽織を着て、久久を着物の中に隠した。そして、河上万斉が唐草紋様の羽織を着て晋助に扮し、男女を装って旅籠を発った。万斉の護衛のもと、サキが鬼兵隊の船に乗り込み江戸へ向かう頃、駕籠に乗った薫が出発した訳である。駕籠を護衛する従者達に混じって、編み笠を被った晋助の姿があった。


「ハア……」

会津の町を抜け、山合いの道に差しかかるまで、異三郎は何度もため息をついた。そのため息は、従者に扮した晋助に向けられているようで、彼は独り言とも小言とも言えないぼやきを繰り返していた。

「咲様と久久様はご無事なのでしょうか……」
「今頃、鬼兵隊の船で江戸に向かってるさ。もう到着したかもしれねェなァ」

と、晋助が軽くあしらう。

「一橋家のご側室が攘夷浪士の船に乗るだなんて、信じられない……」

ブツブツと異三郎が文句を言い続けるのが聴こえたので、薫は駕籠の中から皮肉を言ってやった。

「会津の方は何事にも慎重で疑り深いのですね。この期に及んで、まだそんなことを仰るなんて」

鬼兵隊の船には、武市とまた子がいる。常識人の武市なら産後のサキを気遣うであろうし、また子は赤ん坊に夢中になっていることだろう。


異三郎は、暫く溜め息と小言を繰り返していたが、やがて踏ん切りをつけたように、晋助に打ち明けた。

「江戸に戻りましたら、アナタ方が久久様をお救いになったことを喜喜公にお伝えしようと思います。喜喜公がアナタに興味を持たれるか分かりませんが、彼が国獲りに相応しい駒かどうか、その眼で見定めればよろしい」

晋助は意外な思いで、異三郎を見つめた。

「三天の怪物殿が、鬼と手を組むつもりになったのかい」
「どうやら、アナタはただの鬼ではないようですから。世界を壊すなどという世迷言を言うかと思えば、小さなものを護ろうとする。奇妙な人ですね」

小さなもの、と異三郎が言ったのは、久久のことかそれとも他のことか、晋助には分からなかった。

異三郎は感情の読めない表情をして、ただ、前だけを向いて歩いている。憎しみが連鎖するこの時代、そして大切なものを護れなかった自分自身が己の敵だと、彼は晋助にそう語った。この男の野望の果てには、一体どんな光景が広がるのだろう。
襲撃の夜、妻子の死を明かした彼の瞳は、世界を更地に変えてしまいそうな憎悪で燃えていた。

(この男は、自分自身を火種にして、この世ごと終焉に導くというのだろうか)

倒幕の為に暗躍を続けてきた晋助と、時代そのものを塗り替えようとする異三郎と。彼らのうち、一体どちらが世界の果てに近い場所に立っているのだろう。


その時、混沌とした思いを打ち消すように、透き通った鳥の鳴き声が響き渡った。それは、見事なウグイスの囀(さえず)りだった。
山合いの道の静けさを際立たせる、完璧な美しさ。従者達は皆足を止め、こぞって声のした方を仰いだ。晋助らが会津を訪れた時には、ぐずり鳴きをしていたウグイスが、今は立派な囀りを響かせていたのだ。

異三郎も従者達と同様、足を止めて耳を澄ませている。晋助は言った。

「昔は、ウグイスの鳴き声の優劣を競う、鶯合わせというのがあったらしいな。それだけ、人々は囀りの美しさに魅了されたんだろう」
「では、試してみましょうか」

異三郎は晋助に向かって、微かに笑みを浮かべた。

「江戸に着く前に、今一度ウグイスが鳴くかどうか。もし、今よりも美しい囀りを聴くことができたなら」

彼は編み笠を指先で上げると、澄み渡った春の青天を仰いだ。

「アナタの馬鹿げた大法螺に、付き合ってみましょう」

駕籠の一行は、山合いの道を進んでゆく。
そして山を越えた時、この春一番の、鶯の高らかな初音が響き渡った。



(黄鶯開v 完)
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