鬼と華

□胡蝶之夢 第一幕
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数日後の深夜、鬼兵隊の船医加賀山瑞仙が、大急ぎで船へやって来た。
彼は咲の出産を介助するため会津に滞在していた時、浪士の襲撃で大怪我を負ってしまったが、半年程の静養を経て全快し、江戸で再び医者として活躍していた。彼は正規の産科医ではないものの、産婆だった亡母の影響で一通りの知識と技術は心得ていた。

医務室に仰々しい検査器具を運び込み、薫の診察を終えてから、彼は彼女と向き合って結果を告げた。

「妊娠してるな。胚のうも確認できたよ」
「……本当ですか」

胸が高鳴るのを抑えられず、薫は胸のあたりで手を握り締めた。
これまでで、一度も感じたことのない感情がこみ上げてくる。自分の中に、もうひとつの命がある。まるで鉛を乗せられたように重い責任と、自分だけの体ではないという奇妙な感覚で、胸がざわめく。

加賀山は老眼鏡の向こうの瞳を細め、話を続けた。

「俺は何人かの妊産婦をみてきたが、妊娠の経過もお産の進み方も人それぞれだ。無事に生まれるに越したことはねえが、流産や早産は絶対にないとは言い切れねえ。最後まで何が起こるかわからねえのがお産だと、死んだおっ母がよく言ってたよ」
「……はい」
「痛みや出血があったらすぐに連絡してくれ。俺がどうしても行けねえ時は、必ず代理の者をたてて駆けつけるよ」
「はい。お願いします」
「そのうち悪阻も始まるだろうが、食べられるときに食べれるものだけ摂ればいい。くれぐれも無理はしないように、安静にな」

薫が表情を強張らせているのに気付いて、加賀山はふと口許を緩めた。医者として話していると、口調が堅くなってしまう。医者というのは、どうにも不安を植え付けるのが得意らしい。彼は老眼鏡を外すと、

「晋助さんから訊いたよ。迷惑じゃないかと、心配してるんだってな」

と、医者としてではなく友人として、薫と向き合った。

「これから先、どうなるかなんて誰にも分からねえ。だが、親があれこれ悩んでる間にも、赤ん坊は母親の体ン中で成長してる。小さすぎて感じることは出来ねえが、今だってちゃんと動いてる。もうじき胎動が伝わるようになれば、ぐんと愛おしくなるだろうよ」

加賀山は安心させるように、薫の肩に手を乗せた。

「授かるってのは幸せなことだと、俺はそう思う。晋助さんと薫ちゃんの、二人の子どもだ」

初産婦は何もかもが初めての経験ばかりで、幸せを噛み締めることよりも、心配事の方が先立ってしまう。母は強しとよく言うが、“女は弱し、されど母は強し”という言葉の後段である。どんなにか弱い女でも、母親になると子どもを護るために強くなるのだ。妊娠や出産という未知のものの前で、萎縮している薫もいずれは、強い母親になるのだろう。
加賀山はそんなことを思いながら、ふと、大切なことを言い忘れていたことに気付いた。

「大事なことを言いそびれたな」

彼は目許の皺に目が窪むほどの、顔いっぱいの笑顔を浮かべた。

「おめでとう、薫ちゃん」
「……はい」

その言葉に薫が頷き、ようやく彼女の表情に明るみがさした。

思い起こせば、会津の加賀山を訪ねた際に、薫は咲と久久に出逢い、いつか子どもを持ちたいと願うようになったのだ。忘れられない出逢いを結び付けてくれた加賀山の笑顔を目にして、不安に染まっていた気持ちが、嘘のように軽くなった。



◇◇◇



日没前、東の空から昇った月は、真夜中には空の真上にあった。満月になる一つ手前の形をした、待宵の月。月明りが照らす甲板で、晋助は薫の診察が終わるのを待っていた。
手持無沙汰で懐の煙管に手が伸びるが、その度に薫の顔がちらついて、取り出すのが憚られた。結局火種を手で弄ぶうちに、甲板に彼女と加賀山が姿を見せた。

「よかったな、晋助さん」

加賀山の言葉で、晋助は結果がどうであったかを悟った。加賀山が船を降りて去っていくのをふたりで見送ってから、彼は薫を力いっぱいに抱き締めた。

「い、痛い。晋助様」
「……どんな気分がするものだ」
「まだ、よく分かりません」

薫は自分のお腹に手を当てながら、小さな声で言った。

「不安もあるけれど、うれしい」

甲板を吹き抜ける夜風が、彼女の髪を横にさらっていく。晋助は指で掬うように髪をなでつけてから、そのまま彼女の頬に手のひらをあてがった。数日前に妊娠を告げられた時、胸が熱くなった理由が分かった。抱いた気持ちは、彼女と全く同じものだった。

目が合うと、彼女は歓びに頬を紅潮させ、白い歯を覗かせて笑った。少女のような無邪気な笑みだと思いながら、晋助は言った。

「選べるなら、俺ァ女がいい」
「どうしてですか?」
「俺には似てほしくねェからさ。お前に似た女なら、もう一度小さかった頃のお前に逢える」
「性別がわかるのはまだ先ですよ。気が早いわ」
「気が早いのはお前の方だ。裁縫の本を見ていただろう。もう産着を縫うつもりでいたのか」
「それは……着るものがなかったら困ってしまうと思って」

薫はふふ、と笑いを漏らして、肩をすくめた。

「確かに、気が早いですね」

月の下で、二人は今一度かたく抱き合って、唇が触れ合うだけの優しいくちづけをした。
待宵月、それは翌日の満月を楽しみに待つ、という意味である。暖かな歓びに包まれた気持ちで見上げる月の姿は、満月に劣らぬ美しさだった。



(第一幕 完)
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