鬼と華

□胡蝶之夢 第二幕
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南の空に旱星(ひでりぼし)が輝く頃、鬼兵隊の船の甲板では、船員たちが積み荷の運び込みに勤しんでいた。夜は生暖かい風が甲板を吹きぬけているが、この風が涼やかになる頃には、季節は秋に向かい始める。

一橋邸に赴いていた晋助が船に戻ったのは、夜更けのことだった。彼は戻るなり、大股で甲板を歩き一直線に船内へ向かった。悪阻で伏せっている薫の元へと、彼は急いでいた。
しかし彼の前へ万斉が立ち塞がり、行く手を阻んだ。

「薫なら眠っているでござる。暫く、そっとしておくがよい」

と万斉は言った。この船において、薫の妊娠を知るのは晋助と万斉だけ。晋助が不在の間に何かあった時のために、万斉だけには知らせておいたのだ。

晋助は甲板の縁に背を預けると、懐から煙管を取り出して火をつけた。煙が風に靡き、その先には、万斉が何をするでもなく佇んでいる。まるで晋助が、何か切り出すのを待っているかのようだった。
晋助は煙を吐きながら、言った。

「あいつの具合はどうだ、万斉」
「どうもこうも、見ていて憐れでござるな。苦しみに耐えるのだから、女というものは男の数倍我慢強く、辛抱強い生き物でござる。晋助、お主が国獲りに幾年もかかったというのに、薫はそれをずっと待っていたのでござる」
「薫は辛抱強いが、俺は腑抜けだとでも言いてェのか」

晋助は可笑しそうに、肩を揺らして笑った。

「一橋派を擁し、春雨を動かし、伊賀の忍びを抱き込もうとしてるってのに、腑抜けがやる戦にしちゃあ大掛かりだな」
「晋助、此度の戦はいつもとは訳が違うでござるよ。己の駒を動かしつつ、優雅に高みの見物を決めこむような戦では到底勝てぬ。一橋派、春雨、我ら鬼兵隊……一兵残らず戦力を注ぎ込まねば、将軍の首は獲れぬでござる。生半可な気持ちでするものではない」
「生半可な戦なんざァ、俺ァ一度もした覚えがねェよ」

煙をふうとひと息で吐き、晋助は鋭い眼を万斉に向けた。

「回りくどい言い方はやめろ、万斉。何が言いてェんだ」
「本物の戦場に、身重の女を連れては行けぬぞ、晋助。薫をどうするつもりでござる」

その言葉に、晋助はまじまじと万斉の顔を見つめた。何故彼が待ち伏せしていたのか、その理由が分かった。薫をどうするのか、彼はそれを確かめたかったのだ。
問うた万斉は、彼自身が彼女を護る盾になろうとしているかのようにも見えた。晋助はフンと鼻を鳴らすと、吸いかけの煙管を斜めに払って灰を落とした。万斉のかざした盾を、斬り払うように。

「考えはある。俺は俺なりのやり方で、あいつを護るさ」

と、晋助は煙管を懐に戻し、船の中へと姿を消した。


向かった先は薫の寝室である。万斉の言った通り、彼女は寝息をたてて眠っていた。枕元に近づき、寝顔を見つめる。

「帰ったぞ、薫」

枕元に膝をついて、彼は声を潜めて言った。

「近々、伊賀へ行くことになりそうだ。この船で行く。お前はここで待っていてくれ……」

そっと、彼女の頬に手を添わせる。暫く食べ物を口にしていないせいで、彼女の頬は痩けて、肌の色つやもいいとは言えない様子だった。普段は柔らかく潤んだ唇が、かわいそうにひび割れている。
日々悪阻に悩まされる彼女の、手助けになることがあればいいのだが、身体的な苦しみを分かち合うことが出来ないのがもどかしかった。

「少しでも、俺が代わってやれればいいが……」

そう語りかけていると、薫がうっすらと目を開けた。

「晋助、様……」

晋助は彼女の手をたぐり寄せて、両手で握り締めた。かさついた、ひやりとした手だった。華奢な手がいっそう小さく、頼りなく思えて、彼は彼女の手の甲に唇を押し当てた。

「具合はどうだ。白湯でも持ってこさせるか」

薫は小さく首を振って、微笑んで見せた。

「……万斉様に、檸檬を剥いていただいたの。だから、もう大丈夫……」

薫はそれきり、再び目を閉じて眠りについた。檸檬、と彼女が言ったとおり、部屋の隅に置かれた藤籠には、爽やかな香りを放つ檸檬の実があった。その小さな黄色い果実と、彼女をどうするのかと問うた、万斉の思い詰めた表情が重なった。

額にかかった髪を耳の後ろに流してやりながら、晋助は長いまつ毛や乾いた唇を見つめた。この無防備な寝顔を見つつ、あの人斬りは何を想ったのか。
檸檬の花言葉が“心からの思慕”であると、それは晋助も、万斉本人も知らぬことだった。



(第二幕 完)
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