鬼と華

□胡蝶之夢 第三幕
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それから一夜明け、鬼兵隊の船は伊賀の山の裾に停泊していた。伊賀衆との交渉がひとまず済んだことで、船は安堵の空気に包まれ、静かな朝を迎えた。

明け方甲板に出た薫は、林の向こうにコスモスが咲いているのを見つけた。ちょうど、手紙の挨拶にコスモスの花を思い浮かべていたので、彼女はどうしても近くで見たくなって、人目を盗んで船を降りた。

コスモス畑に近づくにつれて、濃赤や白の花が風にサワサワと揺れているのが分かった。花言葉は、その繊細で清潔感のある花姿にちなみ、『乙女の真心』だという。花にベールを纏うようにうっすらと霧がかかり、それは息を呑む様な美しい景色だった。

「とってもきれいよ。赤い絨毯みたい……」

薫は下腹に手を当て、お腹の赤ん坊にそっと語りかけた。もちろん、いくら風景を伝えたくても、赤ん坊には伝えることはできない。
だが、季節が巡り次のコスモスが咲く頃には、こんな風に美しい景色を、一緒に眺めることが出来るだろう。揺れる花を共に目で追って、花の色を教えることも出来る。その時、一体自分自身は何処にいるのだろう。我が子の隣に、晋助の姿はあるだろうか。

我が子が胎内で育つ、日毎のささやかな喜びを噛み締めていても、晋助や鬼兵隊にとって待ち望んだ復讐の時が、刻一刻と近づいていることに、気持が慄く。少しの風が吹いただけで首を振るコスモスのように、薫自身も不安に揺れ動いていた。


あてもなく、コスモス畑を散策していると、彼女を追って船から駆けてくる者の姿があった。

「姐さん!」

また子である。彼女の姿に目を留めて、薫は手を振って応えた。

「コスモスを秋の桜と書く理由が分かるわ。見事な景色ね」
「勝手に出歩いちゃ危ないッスよ!船に戻らないと……」

また子は薫の手を掴むと、彼女を連れて急いで船の方へと引き返した。ここは忍びの里、何処から狙われるか知れたものではないからだ。
ザッザッと花をかき分けて進みながら、また子が尋ねた。

「体の方は、もう大丈夫なんッスか」
「ええ、だいぶ良くなったわ。それより、あなたも晋助様も、無事に戻られて本当に良かった」
「………」

また子はそれには答えずに、黙ったままひたすら前を向いて歩んでいたが、暫くして薫の方を振り返り、思い詰めた表情をして言った。

「姐さん」
「はい」
「……お腹に、赤ちゃんがいるんッスね」

突然の質問に、薫は戸惑った。彼女が肯定の返事をする前に、また子は俯きがちに言った。

「トイレで吐きまくって、食事もろくにしないで寝たきりでいるのに、万斉先輩に聞いても病気じゃないの一点張りだし……そんなの、私にだって察しはつくッスよ。てゆーか、だいたい皆気付いてるッス。晋助様が何も言わないから、気遣って誰も訊かないだけッスよ」

投げやりな言い方をしてから、彼女は薫の手を強く握り、怒りと悲しみが混じった目で薫を見つめた。

「私、姐さんだったら、晋助様とそうなるのは許せなくもない……むしろ、嬉しいと思うッス。でも、どうして何も言ってくれないんッスか?教えてくれても、私、他の人に無闇に言い触らしたりしないッスよ」
「……また子さん」

船にいる唯一の女同士だ。彼女達の間には、仲間というよりも友情に近いものがある。また子の立場になってみれば、大事なことを隠されるというのは、事情があるにしても悲しい気持ちになるものだ。
薫はまた子の手を、そっと両手で握り締めた。

「まだ、体が不安定な時期ですから……。ちゃんと報告できるようになってから、皆さんには私自身からお伝えするつもりでした。でも、かえって隠しているようで、困惑させてしまいましたね」
「……そうだったんッスね」

また子は決まり悪そうに頬を掻いた。

「私、よく分かってなくて……姐さんを責めるような言い方しちゃって……」
「謝らなくていいのよ。あなたは悪くないわ」

また子はぎこちなく微笑むと、再び薫の手をひいて歩き出した。
子どもの手を握るように、また子の手は優しく薫の手を包んでいた。そして薫を体を気遣ってか、先ほどよりもずっとゆっくり、歩幅を狭めて歩いていた。

コスモスの花に包まれて歩んでいると、初めて出逢った頃、鬼百合の群生を駆け抜けていったまた子の姿を思い出す。あれから随分と遠くへ来たけれど、その道は彼女と共に歩んできたのだ。
これからも共にありたい、手を繋いで進むコスモス畑が、どうかまだ先へと続いていてほしい。そう願っていると、コスモスの向こうに船の陰が見え、また子がぽつりと言った。

「私、見てみたいッス。どんな赤ちゃんが生まれるのか」
「えっ?」
「きっと、心の優しい子になるッスよ。姐さんみたいに……」

穏やかに言う、また子の横顔を見つつ、薫は唇を噛みしめた。子どもの誕生を仲間たちと分かち合えたら、どれだけ幸せか分からない。だが、我が子の誕生の頃には、この時代かどう変わり行くのかすら、薫には想像もできなかった。

コスモス畑を抜け、また子は立ち止まって薫を見つめた。少女のような丸い瞳が、細かに揺れていた。

「姐さん。船を降りたりしないッスよね。私たち、まだ一緒にいれますよね……?」

その答えは薫自身が出すのか、晋助が決めることなのか、彼女は答えられないまま、また子の手をただただ強く握り返した。



(第三幕 完)
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