鬼と華

□胡蝶之夢 第四幕
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停泊している船に戻ると、薫は文机に裁縫道具を広げて、赤ん坊の産着を縫っているところだった。

「おかえりなさい、晋助様」

そう言ったかと思うと、彼女は己の下腹に両手をあてがい、

「あ、また動きました!」

と、嬉しそうな声をあげた。

「さっきから、よく動くんです」
「そうか」

晋助は脇息に片肘をついて、彼女の様子を見守った。彼女は小さく鼻歌を歌いながら、針で生地を縫い付けていた。その細やかな仕草や、縫い目を追う瞳の動き一つ一つが、慈しみに溢れていた。
彼女を目の前にすると、先ほどまで異三郎と倒幕の算段を話していたのが嘘のようだった。彼女がいる空間は、何人にも妨げられない平穏と静謐に満ちていて、この世の煩わしい事を忘れてしまう。

晋助にとって、薫は世界を彩る色彩そのものだった。敬愛した師匠を失い、仲間を失い、絶望を彷徨っていた晋助を、彼女が救ってくれた。世界の何もかもが憎悪の塊となり、己が破滅の道へ進もうとしていたのを、彼女の存在があったから思いとどまれた。
例えば、何とも感じなかった季節の移ろいが、彼女が側にいるだけで途端に生気をもって、鮮やかに瞳に映える。復讐だけを見据えていた己の隻眼に、世界にはこんなに美しいものがあり、変化に富んでいるのだと教えてくれた。そうして同じ世界を分かち合って、生涯を共に歩むものだと信じていた。


晋助は文机の側に膝をつくと、ひとつに結わえた薫の髪に、そっと触れた。

「お前と二人で、こうして話すのは久しぶりだな。江戸や伊賀や、方々を走り回ってばかりで、お前を気にかけてもやれねェで……」
「いいえ。それより、この子がこんなに動くのは、晋助様のお声が聴こえるからかもしれません」

薫がにこにことして言うので、晋助は彼女の膨らんだお腹へと、躊躇いがちに手を伸ばした。

「触れてみても、いいか」
「ええ」

晋助はおずおずと、薫の着物の上に手のひらを這わせた。するとちょうど赤ん坊が動いて、彼女の肌を通じて晋助の手に胎動が伝わった。
急なことに驚いて手を引っ込めると、彼女は安心させるように、優しく晋助の腕に触れた。

「大丈夫ですよ。怖いものではありません」

彼女は晋助の手に自らの手を重ね、静かに目を閉じた。

「お腹の赤ちゃんには、母親の声や外の物音がちゃんと聴こえるんですって。だから外の世界に出て、沢山語り掛けてやってと、加賀山先生が仰っていました」
「お前は、何の話をしたんだ」
「金木犀の香りがしたことをお話しました。他にも、日々のことをいろいろ……。晋助様も、何かお話してくださいな」
「いや……俺は、いい」
「照れなくてもいいですから」

晋助は、胎動を感じ取った己の手のひらを見つめた。トクン、と確かに動いたのが分かった、それは不思議な感覚だった。同時に、幾つもの駒を使い、数多の人を殺めようとしている己の手で小さな命に触れるのは、怖れにも似た感情が芽生えた。
彼は少しの間考えて、言った。

「お前を、あまり苦しませないように生まれてきてくれ、と……。今は、そんな事しか思い浮かばねェな」

薫は微笑みを浮かべたまま黙って頷き、再び産着を縫いはじめた。

彼女の中に息づくのは、ふたりの血を受け継いだ新しい命だ。もし、授かったのが今でなければ、彼女と共に誕生を待ちわび、慈しむことができただろうか。彼女が幸せを噛み締め、笑顔を見せるたびに、晋助は胸が締め付けられるような思いがした。いくら抗おうとも、もう、事は後戻りできないところまで来てしまった。

「いつだったか、万斉に言われたよ。鬼兵隊、春雨、一橋派……持ちうるすべての力を総動員しねェことには、将軍の首は獲れねェとな」

晋助は静かな声で語った。

「何百人……いや、何千人もの人間が、この計画を遂行するために動く。たとえ何万人を俺が先導しようとも、こうしてお前が俺達の子を身籠り、護り育てようとすることに比べたら、えらくちっぽけなことに思えてくる。俺がしてきたことに、一体どれだけの意味があるのかと……」
「そんなことありませんよ」

横に大きく首を振って、薫は言った。

「晋助様が今まで積み重ねてきたことには、大きな意味があります。晋助様が道を切り開いて、皆を導いたのです。復讐を果たすために、皆の思いを遂げるために……」

彼女は晋助の手を取り、両手で握り締めた。晋助は、それ以上の強い力で指を絡ませ、まるで祈るように、重なった手を己の額にあてがった。

「復讐のため、皆のためと言うが、じゃあお前のために、俺は何をしてやれたのか……。大事な時に何もしてやれねェで、不甲斐ねェばかりだ……」
「……晋助様」

その時、薫の指がするりと手を通り抜けたと思うと、彼女は背筋を伸ばして正座をして、手を膝の上で組み合わせた。

何かの覚悟を決めたような、整然とした佇まいだった。芯のある瞳で晋助を見つめながら、彼女は言った。

「私に、本当に言いたいのは、そんなことではないのでしょう」

驚くほど冷静な、落ち着いた声だった。

「私なら平気です。……早く、言ってください」

晋助の視界には、薫の肩越しに縫いかけの産着が見えた。麻模様の刺繍を施した、小さな小さな産着だった。
子を護り抜くのが父親の役目、異三郎の言葉が蘇った。晋助は薫がしたのと同じように、姿勢を正して彼女と向き合った。

「俺は先生の仇を、仲間達の仇を討ちに行く。俺にとって、最後の戦になるかも分からねェ」

微動だにしない彼女の瞳を見つめて、晋助は言った。

「もう、お前を、連れてはいけねェ」
「はい」

薫ははっきりした声で頷いてから、そのまま肩を落として俯いた。肩が小刻みに震えており、声を出さずに泣いているのだと分かった。頬に涙の筋が光り、彼女は晋助に見せないようにと、顔を傾けて涙を隠していた。

何があっても離さずに側で護りとおす、そう言えない晋助を、薫は責めなかった。子どもを捨てるようなことをしないでくれと喚くことも、酷い男だと罵ることもしなかった。いや、そんな風に取り乱した方が幾分かよかった。これ以上一緒にはいれない、そう告げたにも関わらず、数々の言葉を飲み込んで頷いた彼女は、壊れそうな硝子のように痛々しかった。

どんな時も隣にいさせてほしいと、薫がそう願い続けていたのは、いつかこんな日が来ると、どこかで覚悟していたのかもしれなかった。



(第四幕 完)
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