鬼と華
□胡蝶之夢 第五幕
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薫にとって、京の町を訪れるのは久しぶりであった。
早朝は人通りが少なく、鴨川にかかる冷たい霧が町を覆っている。霧の向こう、三条大橋がまるで幻影のようにぼんやりと浮かんでいた。
橋へ向かって歩きながら、晋助が唐突に言った。
「薫」
「はい」
「しっかり食え」
「えっ?」
「お前は元々食が細ェんだ。そんな細身じゃあ、子どもを産むにしても体力が持たねェぞ。女はちょっと肥えているくらいがちょうどいいんだ」
どちらかというと痩身の薫に対して、今になってそんな事を言うので、彼女はかちんときて言い返した。
「晋助様こそ、私がいないからって、お酒ばかり飲んではいけませんよ。ちゃんとした食事を摂って、煙草もほどほどに……」
煙草、と口にして、彼女はふといつもと違うことに気付いた。
「……晋助様、どこかに煙管を忘れたのですか?煙草の匂いがしないわ」
「今は、吸わなくていい。お前を武平に預けたら、何処でだって、思う存分吸えるからな」
「まあ」
三条大橋のたもとにある茶屋で、武平と妻の佳代が薫を待っている。橋を渡り切ったら、晋助は彼女を武平に預けて、この地を去ることになっていた。それまでの短い時間を過ごすのに、軽口や冗談を言い合っていないと、何かが崩れそうで怖かった。
二人の歩みが橋にさしかかったところで、鴉(からす)が数羽、低い声で鳴きながら橋の上を横切って行った。そして朧気に明るい朝陽に向かい、羽を広げて飛び立っていく。
晋助はその様子を見ながら、おもむろに口を開いた。
「西へ行く人を慕ひて東行く
わが心をば 神や知るらん……」
東へ飛び立つ鴉に、江戸へ向かう自分自身の姿を重ねて詠んだのだろうか。西へ行く人、というのが薫のことを指していることに気付いて、彼女は微笑んで言いなおした。
「晋助様、西へ行く“人ら”を慕ひて、ですよ。ここに、もうひとり」
彼女の手が、自らのお腹をそっと撫でていくので、晋助はさざ波のような微かな笑みで、そうだなと言った。
笑みが消えると、彼はその表情にどこか暗鬱な影を落とした。
「今朝のお前は……俺が知ってるお前じゃねェみたいに、きれいだよ」
薫から目を逸らし、彼は河原の方を眺めながら言った。
「霧に翳む街も、三条河原を飛ぶ鴉も……俺ァ全部が憎らしい。全部斬り捨てて、お前だけを拐って、何処か遠くへ行っちまいてェなァ……」
彼は苦悩と孤独がもつれあった、複雑な表情を浮かべていた。背負うものをすべて三条河原に投げだして、この道を引き返したい。そんな風に思っているようにも見えた。
何もかもを捨てて逃げるなんて、それこそが夢のようだ。向かい合った戦いに、今はまっしぐらに進まなくてはいけない時だ。それが、何を振り切ることになろうとも。
「ご冗談を。晋助様は、すぐに江戸に戻らなきゃ。これから大事な時が待っています」
薫は前を向いて、自分自身に言い聞かせるように言った。
「私は、私の戦いへまいります」
共に橋を渡りながら、彼女が思うのは、またいつの日か、彼の隣を歩むことが出来るだろうかということだった。いつしか彼が言った、復讐の果ての新しい世界で、これから生まれてくる子と三人で、共に生きることを望んでもいいのだろうか。
けれど、国を相手取って大きな戦に挑もうとする彼に比べれば、そんな夢はちっぽけなものだった。そして、その夢が叶うのかどうかということよりも、離れ離れになった晋助を待ち続けていられるかどうか、そのことが恐ろしかった。ずっと変わらずにいたいと自ら願っていたけれど、彼女自身母親になることを選んだ。人は、時と共に変わってゆくものだ。もし、変わらずに続いていくものがあるとするなら、それは一体何なのだろう。
それを確かめたくて、隣を歩く晋助の手を何度も何度も握ろうとしたが、触れてしまったら最後、二度と手離せなくなってしまいそうで、触れることが出来なかった。
「晋助様……」
もうじき、橋を渡り切ってしまう。
薫は晋助を呼び止め、彼を見上げた。彼の隻眼は、憂いを含んだ哀しい色をして、彼女の姿を映していた。
「お願いがあります。私が隣にいたことを、どうか……どうか、忘れないで」
数えきれない季節、幾つもの笑顔と涙を重ねてきた最愛の人へ、彼女は願った。
「何処にいても、何をしていても……いつも、あなたのことを思っています」
「あァ。忘れねェよ」
晋助は頷いた。
葛藤の嵐が吹きすさぶ胸の中で、ただ一つ確かな光があるとすれば、それはお互いを愛しているということだった。その強い想いを胸に抱いて、己の戦いへ行く。
「忘れねェよ……」
いつの間にか川を覆っていた霧は薄まり、三条大橋の先には、京の街並みがくっきりと浮かび上がっていた。東の空から照らす朝陽が、橋の上で白い微粒となって輝き始める。
ふたつ並んだ灰色の影は、淡く揺れながら一つに重なってから、別々の方角へと進み始めた。
(胡蝶之夢 完)