鬼と華

□水天一碧 第一幕
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華岡赤州という医師は、開国前の時代に臨床試験に取り組み、麻酔を使った外科手術を成功させた実績がある名医だった。彼の開設した春林軒では多くの若者が医療を学び、多くの患者が治療を受けていたが、高齢を理由に指導を止めてからは、人に頼まれて病を診たり、療養を要するものの世話をしている。

春林軒の敷地に足を踏み入れ、薫はその広さに驚愕した。病棟や宿舎と思しき長屋が幾つも並んでおり、いずれも古いが改修のあとが見受けられた。伊東が言うには、かつての宿舎の一部を壊して開墾して畑を耕しているそうだ。

すると、畑の方からこちらへと歩いてくる人影があった。伊東は小声で薫に言った。

「先生は一風変わった人です。怒らせると厄介なので、発言に気を付けてください」

言われなくとも、ずんずんとした足取りでやってくる人物は、遠くにあっても独特の威圧感を放っていた。畑作業の途中のようで作務衣を来て頬被りをしており、白髪交じりの髪と髭をぼうぼうに伸ばしている。医者らしからぬ風貌だった。
伊東は自ら華岡に歩み寄り、丁重に頭を下げた。

「ご無沙汰しております。華岡先生。お変わりなく何よりです」
「おう」

それだけの短い挨拶をしてから、華岡はぎょろりとした目でまじまじと薫を見つめた。招かれざるものに対して、警戒と拒絶をあらわにするような目つきだった。
彼女は伊東と同じように挨拶してから、用心して晋助の名前は出さずに、黒髪の男が数日前から世話になっていないかと訊ねた。華岡はそれを認めた上で、きっぱりと言い放った。

「あの男に面会に来たのか。面会は認めない。流行り病の患者に会わせる医者がどこにいるってんだ」

皺に窪んだ目の色は厳しかった。晋助がいるのだという眩い希望は、鋭い眼光に容易く打ち負かされた。華岡は威圧的な口調で、薫を脅しにかかった。

「そもそもウチは避病院じゃねェし、こんなに平和な町に病原菌を撒き散らしてほしくねえ。屋敷から一歩たりとも外に出ないという約束であの男を受け入れた。病人は病人らしく部屋に閉じ籠って、一歩でも外に出たら即刻海に沈めると言ってある」
「まあ」

薫は驚いて目を丸くした。病床の男が過激派攘夷集団の首領だと知ったら、一体どんな顔をするのだろう。すると華岡は、少しだけ目許を緩めて薫を見た。

「だがまあ、加賀山の野郎の頼みじゃあ断れねえ。江戸で共に遊学した仲だからな」

そう前置きしてから、彼はニヤリと笑った。

「加賀山が直々に連絡を寄越すくらいだから、あの隻眼の兄ちゃんは相当やべェ奴なんだろう。鬼の霍乱(かくらん)とはまさにこのことだな」

普段は丈夫な人が珍しく病気にかかることの喩えだった。薫は苦笑いして頷いた。彼が病床に伏すなど、戦時中に負傷した時を含めてほんの数回きりだ。流行り病に罹患して一番驚いているのは、おそらく彼自身だろう。
だが、面会を認めないと言われて、素直に引き下がる薫ではなかった。

「面会は諦めます。扉越しで構いませんから、お話だけさせてくれませんか。あの人の無事を確かめるためにはるばる江戸から来たのです。あの人に会えないなら、来た意味がなくなってしまう」

真剣な頼みに、華岡は否とは言わなかった。彼の案内で薫は一棟の屋敷へとやって来た。かつて病棟として使われていた一棟の奥に、晋助がいるという。

そろりと静かに家に上がり、扉の前に膝をつく。会いたい一心で訪ねたというのに、扉の向こうに彼がいるのだと思うと緊張でなかなか声が出なかった。

「……晋助様」

室内はしんとして返事がなかった。彼女はもう一度呼びかけた。

「晋助様。薫です」
「……何をしに来た」

ああ、と声が出そうになった。耳に慣れた、内に妖艶さを秘めた低い声。扉の向こうにあの人がいると思うと、歓喜が胸を突き上げ涙が出そうになった。
だが彼女が感激しているのと対照に、彼は淡々とした冷たい口調で言った。

「誰も来るなと言っておいた筈だぞ。お前も例外じゃねェ。一体どういうつもりだ」
「お叱りは覚悟しています。でも、私の知らない所であなたが苦しんでいると思うと、もしものことがあったらと思うと……居ても立ってもいられませんでした」

薫は扉の向こうへ訴えた。顔や姿は見えないが、声を聴いているだけでありありと思い浮かべられる。

「武市様のお部屋で加賀山先生のお手紙を見つけて、気付けば船を飛び出していました。無鉄砲な行動に自分でも驚いています。ひとりでこんな遠くまで来たのは初めてですもの」
「そうかい。無事に着いて何よりだな」
「ええ。本当にそう思います」

晋助の嫌味にも素直に返事をしたので、彼がひっそりと笑う気配がした。その笑顔を頭の中に思い描く。無事で良かったという安堵の気持ちが落ち着いてくると、小言のひとつも言いたくなる。

「晋助様が何も言わず行ってしまったから、この数日間生きた心地がしませんでした。何処にいるのかさえ分からなかったんですもの。もう、こんな事は止めてくださいな」
「お前に言ったら、ついていくと言ってきかないだろう。流行り病にかかると厄介だぞ。お前に苦しい思いをさせたくない」
「私は丈夫だから、晋助様がどんな病気になったってうつったりしないわ」
「……だから来るなと言ったんだ」

彼は呆れた様子で言った。いくら呆れられても叱られても、本当は言ってやりたい。もし逆の立場だったらどうするのかと。大切な人が病にかかって、何も告げずに姿を消したら、心配で心配で仕方ないと思うに違いない。病める時も変わらずに側にいたいと願うのは、おかしなことだろうか。

そっと扉に手を沿わせる。扉越しでと言ったのは自分自身だが、この向こうに彼がいると思うと欲が出てくる。ほんの少しでいいから、ひと眼でいいから、姿をこの目で確かめたい。
晋助様、と彼女は呼びかけた。

「少しだけ、お顔を見せてください」

静かに扉を開けた。調度品も何もない殺風景な部屋に一組の布団が敷かれ、晋助が上体を起こしていた。 目が合うと、彼は微かに笑って見せた。以前よりも頬が痩けて顔色も悪く、身体の線が細くなっていたが、確かに彼はそこにいた。

(ああ、よかった)

今すぐ、彼の胸に飛び込みたい。心配でどうしようもなかった、逢いたかったと思いの丈をぶちまけて、わんわんと声を上げて泣き喚きたい。そんな衝動をじっと堪えて彼を見つめた。嬉しさともどかしさが胸に詰まって、息苦しいくらいだった。

二人は暫く目を合わせて黙っていたが、やがて晋助が苦笑いして言った。

「何も死んじまう訳じゃねェよ。そんな顔をするな」

その一言に、とうとう堪えきれず、薫の瞳から涙がぽろぽろと溢れだした。もしも知らぬ間に、この人が突然この世からいなくなってしまったらどうしようと、独りきりで取り残されてしまったらどうしようと、胸の底にあった不安と恐れの塊が、やっと融けていくのを感じた。



(第一幕 完)
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