鬼と華

□水天一碧 第二幕
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夜更け、薫は頬を撫でる風でふと目が覚めた。外へ続く扉が開け放たれており、藍色の夜空に見事な満月が浮かんでいた。目が醒めるような綺麗な月だった。こうこうとした月明かりに、春林軒の敷地が青白く照らされていた。月明かりというのは、闇の中では本当に明るいのだ。

冷たさを含んだ夜風が、潮の香りと共に懐かしい煙草の匂いを運んでくる。上体を起こすと、晋助が縁側に腰掛けて煙管をふかしていた。彼は羽織を無造作に肩にかけて、片膝を立て月光の中にひっそりと佇んでいた。濡羽色の黒髪は風にさらさらと踊って、月夜に艶めいていっそう美しい。

濡羽色というのはカラスの羽根を指す色だが、カラスはよく見ると真っ黒ではなく、青や紫、緑などさまざまな色の光沢がある。彼の髪もまた、青白い月光を映しく妖しく耀いていた。

いつまでも眺めていても、厭きることはないのだろう。彼に逢うためにはるばる訪ねて、本当によかった。

「晋助様」

呼び掛けると、彼は振り返ってうっすら微笑んだ。それからばつが悪そうに煙管の灰を捨てて知らんふりをしたので、薫は非難の目を向けて言った。

「隠れて煙草を吸うなんて、いけない人。病み上がりですから、身体に悪いものはどうか控えてください」
「煙草を吸ったのは此処に来てからこれが初めてだよ。やっと生き返った気分がする。あとは酒があれば最高なんだが」
「まあ。華岡先生が聞いたら、海に沈めるなんてまた物騒なことを仰るわ」
「違いねェ」

晋助は可笑しそうに笑ってから、煙管と火種を片手にゆらりと立ち上がった。羽織の下には何も身につけておらず、均整のとれた四肢も、首から腰にかけて引き締まった肌も全てを晒している。
ばさりと音を立てて羽織を脱ぎ捨ててから、彼は煙草の残り香を強く伴って寝床に戻ってきた。彼の腕が自然と薫の腰を抱き寄せたので、彼女は彼の首もとに腕を絡ませて訴えた。

「晋助様、私も病になりそうです」
「とうとう俺の疫病がうつったか」
「いいえ。そうではありません」

その病ではないのだ。彼女は目を閉じて己の身体の感覚を研ぎ澄ませた。彼との交わりは決して激しいものではなかったけれど、抱き合ってひとつになっているだけで充分過ぎるほどに満足した。身体の中に彼がいることを感じることで満ち足りた気持ちになり、身体的な刺激よりも、愛している、愛されているという気持ちの昂りが大きかった。
彼が見つめている前で、彼女はあられもない声を上げながら何度も達した。その度に彼は優しく抱き締め、髪を撫で、甘い言葉を囁いた。この一晩だけで、何度気をやったのか彼女は覚えていなかった。最後は絶え間のない快感のあまり意識を手放した。いまだ消えやらぬ余韻が残って、手足はじんと痺れたままだ。蕩けてゆくような幸福感に病み付きになりそうだった。

彼らはお互いの目をじっと見つめあってから、どちらともなく瞼を閉じて唇を重ねた。煙草の香りがいっそう濃くなる。唇から伝わる味はほろ苦いのに、ほのかに甘く感じるのはどうしてだろうか。

はるばる白浜へ来たのは、晋助の安否を確かめるためでも、彼の身の回りの世話をするためでもない。こうして彼の腕に強く抱かれて、くちづけるためだ。そんな思いが脳裡を過り、つくづく心からこの人に夢中なのだと思い知らされる。

「あ、ふ……」

ざらりとした舌が唇を割るのと同時に、腿の間にするりと手のひらが滑り込んだ。潤みを残した女陰へと指先が伸びかける。薫は悲鳴をあげてその手を制止した。

「ダメです。もう、できません」
「冗談さ」

焦りように笑みを溢して、晋助は片方の腕で彼女を抱き、もう片方の手を櫛のようにして彼女の髪を撫でた。
優しい手つきに胸がときめく。されるがまま身を任せていると、彼は子どもに語り掛けるような柔和な声で言った。

「お前が何をするにも愉しそうだから、どんな訳があるのかと勘ぐっちまう」
「愉しそう?私がですか?」

薫は首を傾げて彼を見上げた。

「飯の支度も風呂焚きもさぞかし疲れるだろうに、ここにいるお前は、船にいる時よりずっと生き生きとして見える。何かいい事でもあったのか」
「さて、どうでしょうか」

彼女はとぼけて見せて彼の肩に頬を預けた。

「私は何も変わりませんよ。いつものように、お側にいるだけ……」

生き生きとして見えるというのに理由があるとすれば、それは晋助が側にいてくれることだ。それ以外に訳なんてありはしないのにと思いながら、薫は愛しい人の温もりに包まれて、そっと目を閉じた。




(第二幕 完)


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