鬼と華

□水天一碧 第三幕
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翌日、早朝に目が覚めた薫は、晋助を起こさないように静かに寝床を抜け出して外へ出た。朝の明るみが、東の空から滲み出している。薄闇にぼやけていた草むらや木立が、朝陽を受けてくっきりとその姿を現し始めていた。春林軒で過ごす時の中で、彼女は早朝の時間が一番好きだった。夜でも朝でもない、夢かというと現実でもない、薄明の白っぽい世界は、この世の始まりのような荘厳さと新鮮味がある。

まだ誰の息も混じらない朝の空気は、全身を洗われるように爽やかだが、外は一枚羽織るものが欲しくなるくらい冷えていた。水の冷たさを感じながら井戸で水汲みをしていた時、バタンという音がした。母屋の方からだった。板張りの床に何かを叩きつけるようなその音は、早朝の静けさの中では異様に響いた。

何が起こったのか気になって、寝間着姿のままで母屋へ行った。すると中居間の扉が半分程空いており、その先に、うつ伏せで誰かが倒れていた。
金色の短い髪、痩せ細った棒切れのような四肢。鷹久が倒れていると悟った薫は、短く叫んで足を止めた。

「ひっ」

突如目に飛び込んだ光景に手足がすくむ。鳩尾を撃たれたようなあまりの驚きに、その場を動くことが出来なかった。

痩せた足が縺れ、這うように腕を伸ばして倒れ込むその様は、戦場で野垂れ死ぬ負傷兵のようだ。だが、前方に伸ばした手が何かを掴むように動いたのを見て、彼女はハッと我に返った。心臓が激しい動機をうつのを感じながら、慌てて彼の側に駆け寄る。

「鷹久様、どうなさいましたか。鷹久様」

呼び掛けると、痩せた肩がピクリと何度か動いた。それから彼はくるりと首を曲げて薫を見た。恐ろしいものを見たかのように顔が青ざめている。血色の悪い唇を細かに震わせながら、彼は声を発した。

「母上」

はっきりとした明朗な声だった。亡くなった母親の夢でも見ていたのだろうか。

「僕は、死んでしまったのですか」

鷹久はそう訴えたが、一体何処を見ているのか、目の焦点が合っていない。薫は大きく首を横に振ると、彼の肩を支えて何とか寝床へと連れ戻すと、水を一杯汲んできて飲ませた。

鷹久は暫く己の手元を見下ろしてぼうっとしていたが、次第に意識がはっきりとしてきたようだ。瞬きを繰り返して、薫をじっと見つめる。

「近頃、目覚めているのか眠っているのか、どちらともつかない時があります。目が醒めても、今自分が生きているのか、知らないうちに死後の世界に来てしまったのかが分からないのです。薫さんがいるということは、僕はまだ死んでいないようですね」

薫を笑わせようと冗談めかして言ったようだが、倒れている様子を目撃した彼女には、とても冗談には聞こえなかった。彼はそのまま言葉を続けた。

「僕は夢のなかで暗闇を歩いていました。遠くに母上の顔が見えたような気がしたのですが、突然ぐらりと体が傾いて、闇底へと堕ちていきました。僕はひとりではもう満足には歩けないのに、足許が崩れてゆく感覚が妙にはっきりしていました。とても恐ろしかった。何とかしなければと、知らず知らずのうちに寝床から這い出していたようです」

亡くなった母が見えたのは、そこが死の世界への入り口なのかと思うと背筋がぞっとした。死期が近いということを、彼自身で自覚しているのだろう。死の恐怖に苛まされているという点では、彼は春林軒の中で最も孤独だ。必死に逃げ場を求める小動物のように、鷹久は脅えた表情で虚空を見つめた。

「あれは、現実と死の世界の境目だったのかもしれない。あのまま、闇のそこに堕ちていたらどうなったのでしょう。死んでしまったことに僕だけが気付かないで、暗闇のなかをいつまでも独りきり、さ迷い歩くのでしょうか」
「鷹久様」

薫は声を張って彼の言葉を制した。恐怖に見開いた灰色がかかった瞳が、ひたりと彼女を捉えた。彼女は鷹久の骨ばった手をしっかりと包み込んだ。細く頼りなく、乾燥してごわついた肌。でも握っていると、仄かに体温が伝わってくる。

「生きていますよ。大丈夫。怖い夢を見ただけです。誰にでもあることですよ」

宥めようと必死に思い付くまま言葉を並べた。手に触れていると、鷹久の不安や恐怖が直接伝播して彼女の胸もざわついた。静まり返った空間で手を取り合って、怖気を追い払おうとしているようだった。

「ほら。ちゃんと触れてください。私の手の感覚がするでしょう」

手のひらにそっと力を込め、温もりを分け与えるように何度も手の甲を擦った。そうしているうちに、徐々に脅えの色が収まるのが目に見えて分かる。彼の眼は、世界を知らない純真な子供のように濁りがなく、あらゆる感情を素直に投影する。彼の双眸が独特に見えるのは、顔つきは青年なのに、瞳は少年そのものだからだ。

ふと、寝間着から覗く痩せた首筋に、脂汗をびっしょりとかいているのに気付いた。このままでは気分が悪かろうと、彼女は着替えを提案した。

「汗を拭いて寝間着を取り替えましょう。替えのものはどこですか」
「…………いや、でも」

すると、鷹久は恥ずかしそうに俯いて口をつぐんでしまった。いつもは華岡や鴨太郎が着替えの介助をするのだから、女の薫が手伝うのは抵抗があるのだろう。そうは言っても、わざわざ鴨太郎を起こしに行くのは気が退けたので、着替えのありかを聞き出すと、手早く脱がせて、湿らせた麻布を硬く絞った。

「少し冷たいかもしれません。我慢してくださいね」

鷹久は血管の蒼さが浮き出たような色の肌をしていた。細く骨ばって、頼りない身体つきだった。呼吸をする度に、あばらの浮き出た痩せた胸が不自然なくらいに上下した。自分では歩けないと彼は言ったが、腿や膝などは、力を込めればパキリと音をたてて折れてしまいそうだ。

身体を拭いて着替える間、終始彼は恥ずかしそうに唇を結んで、じっと黙っていた。
着替えを終えて、汗で汚れたものを手に出て行こうとすると、鷹久はか細い声で彼女を呼び止めた。

「薫さん。……あの、お願いがあります」
「何でしょうか」
「僕は、女性のことをよく知りません。先ほどあなたの手が僕の体に触れて……女の人の手は小さくて、細くて……柔らかいものだと、初めて知りました」

何でも饒舌に語る鷹久が、慎重に言葉を選びながら、躊躇いがちに話していた。それから彼は、穴が開くほどじっと薫を見つめた。
それは行きの列車で、酔っ払いが向けてきた舐めるような猥雑な視線とも、晋助に抱かれる時の情熱的な視線とも全く違った。好奇心と畏怖の混じった、羨望の眼差しだった。遠くにある何かに恋い焦がれるように、心から訴えかけるように切実なものだ。
彼は息を潜めて、彼女に打ち明けた。

「少しだけ、触れさせてくれませんか。あなたに」

言った側から、鷹久の耳の先までが真っ赤になった。照れた時の反応が鴨太郎と全く同じだった。
それから彼は頭を掻いて、言い訳を並べるように早口で捲し立てた。

「あなたには恋人がいるのに、こんなことを頼んでしまっては怒られてしまう。卑しい男だと軽蔑したでしょう。よく考えもしないで、どうして僕は言ってしまったんだろう」

薫は思わずフフ、と笑った。まるで少女に興味を持ち始めた思春期の少年のようで、可愛らしいと思ってしまった。
普段の鷹久ならきっと、こんな事は言わないのだろう。恐ろしい夢から醒めて、まだ現実に慣れていない覚束なさが、一瞬だけ彼を大胆にさせたのだろう。薫は彼の側に正座をした。

「少しだけなら構いませんよ。どうぞ」

鷹久の瞳は、未知の世界の一片を目にした子どものように好奇心に満ちて、ひと回りほど膨らんだ。真っすぐに見つめる視線を間近で受け止めるのは躊躇われたので、彼女は目を閉じた。

暫くして、細い手が己のほうに伸びてくるのを感じた。渇いた手のひらが、彼女の頬に沿ってそっと当てがわれる。滑らかできめの細かい肌の感触を味わうように、彼は繰り返し手のひらを這わせた。それから指先を伸ばして、唇の形を確かめた。唇に触れられていると、緊張のせいで口腔がどんどん乾いてゆく。彼女が唾を飲んだのと同時に、手はパッと離れた。

次に彼は、着物のうえから手首に触れ、腕の細さや柔らかさを感じながら肩の方へ近付いていった。おずおずと、細腕が背中の方へ回る。彼の匂いがぐんと濃くなり、ふたりの距離が急に縮まった。

早朝の部屋は耳がおかしくなりそうなくらいにしんとしていて、浅い息遣いしか耳に入ってこない。鷹久がこくりと唾を飲み込む音がした。骨ばった喉仏が上下する音さえも聴こえるようだった。鼻先が微かに髪のなかに埋まる。彼は掠れた声で呟いた。

「……どうしてこんなに甘い匂いがするのですか。不思議でなりません」
「なぜでしょうね」

同じ事を、つい先日起き抜けの晋助に言われた。鼻先を擦り付ける、甘えん坊の猫のような仕草がただただ愛しかったのを思い出し、彼女は言った。

「好きな人に、愛してもらうためかもしれません」

小さく喉が鳴って、髪に微かに唇が触れる感覚がした。
あっ、と思い目を開けた時には、鷹久は腕を解いて離れていた。頬に赤みがさして、灰色がかった瞳が少し濡れてきらきらとしていた。彼は薫に微笑みかけた。

「夢のようでした。ありがとう」

薫は頷き笑みを返したが、胸が破けそうに痛くて仕方がなかった。
こんな小さな事ではないのだ。死を間近にして怯えるこの人の為に、永らく抱いてきた孤独を癒す為に、してあげられる事は何だろうか。その答えを導くのに、残された時間はごく僅かなのだ。



(第三幕 完)


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