鬼と華

□水天一碧 第四幕
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白浜海岸の渚には、波と光が踊っていた。午後の海は白っぽく粉がふいたように凪いでいる。昼間は燦々と降りそそぐ陽射しに磨かれる海も、日が傾くと途端に柔らかな表情を見せた。いつの時間帯でも、白浜の海は美しい。

薫は食事の支度を中断して、浜辺に来ていた。細かい砂は、踏む度にサクサクと音がした。波打ち際を歩きながら、潮風や波の音に耳を澄ませる。海面の目映さに目を細めつつ、彼女は情事のあとの会話を振り返った。

ずっとここに居たいと口走った彼女に対して、晋助はカンと音をたてて灰を捨ててから、短く言い放った。

「あと三日したらここを発つ」

あと三日。華岡から七日は療養しろと言われたうちの、半分はもう過ぎてしまったということに、彼女はハッとした。

「俺が連絡をつければ、船がこちらに着く手はずになっている」

晋助が羽織の中に、小型の通信機を隠していることを思い出した。療養が終われば船に戻るのは当然のことだった。彼には倒幕という大きな目的があり、万斉やまた子、武市をはじめとした多くの仲間達が、総督の快復と帰船を待ちわびている。

だが、薫は戻りたくなかった。彼女の幸せは全て白浜にあった。大切な人の身の回りの世話をし、愛されて、平穏な明日が巡ることを約束された日々。
いつだったか晋助に、幕吏に目をつけられることなどない、安泰な暮らしが欲しいかと訊かれたことがある。安泰などいらないと答えたのを覚えているが、白浜の平和な日々を味わった今、安泰な生活は彼女が何よりも欲しいものだと気付いたのだ。

そんな彼女の思いを見透かしてか、晋助はうっすらと微笑んで言った。

「ここで過ごしたら、お前は帰りたくないと言うと思っていた。来るなと最初に釘を刺したのは、それが分かっていたからだ」

彼はそれきり何も言わなかった。いくらここにいたいと願っても、叶わないと言われているようなものだ。これ以上何かを言ったら彼を傷付けることを口走ってしまいそうで、薫は口をつぐんだ。彼が煙管の煙をくゆらせる間に乱れた着物を整え、食糧庫に行く振りをして春林軒を抜け出して、今に至る。

美しい海や空。恵みの作物。大切な人が側にいる日常。束の間の夢だと思うには満ち足り過ぎている。船に戻ることは、薫には心地好い微睡みから引き離されるのと同じだった。本当は、声を大にして戻りたくないと言いたかったけれど、晋助を困らせることにしかならない。口に出してはいけないことだという葛藤が膨らみ、やるせない思いが積み上がる。

ついさっきまで、情熱的に愛されたのが嘘のようだ。背中を吸われた痛みも、体の奥に放たれた熱さも、まだ克明に刻まれているというのに。


暫く歩いていくと、浜辺で膝を抱えて座る人影が見えた。鴨太郎だった。彼は難しい顔をして、じっと海を見つめていた。短く切り揃えた髪が潮風にそよいでいる。どのくらい浜辺にいるのだろう、耳と鼻の先が少し赤く見えた。
彼女は反射的に足を止めた。誰とも話したくない、誰の顔も見たくない、そんな尖った気分だった。そっと踵を返そうとした時、

「何か、嫌なことでもありましたか」

と鴨太郎が訊ねた。胸のうちを読まれたようで、薫は怪訝に思って首を傾げた。

「どうして嫌なことがあったと分かるのですか?」
「嬉しい出来事があった人が、独りで海を見に来ますか。悩みや鬱憤を晴らしたい時や、気分が塞ぎこんだ時に、人は海を見たくなるものです。広大な海を見れば、ちっぽけな悩みなどどうでも良くなると思うのでしょうね」
「ということは、鴨太郎様も嫌な出来事があったのね」

彼はそれには答えずに、海の方へ向けていた視線を薫へやった。いつもは冷静で感情の読めない目許が、憂いを帯びて柔らかかった。

「あなたのお陰で、兄と話してみようという気持ちになれました。列車で酔っ払いに絡まれているあなたを助けた時は、こんな事になるとは思いもよらなかった。本当に、奇妙な縁があるものです」

彼は再び海を見た。遠くの方では、二羽の白い鳥が海面を滑空していた。湾曲した翼の形が美しかった。一羽が前へ出るともう一羽が追い抜き、追い抜かれてはまた追い越してを繰り返して戯れている。水飛沫が羽根に煌めくのが遠目でも分かる。

「あなた達を見ていると、比翼の鳥という言葉が浮かびます」

鴨太郎は静かに言った。あなた達というのは、晋助と己を指すのだろうかと、彼女は他人事のように聞いていた。

「病に伏せる恋人の為に、あなたがひとり列車に乗って会いに行くと知った時、さぞかし大切な人がいるのだろうと、その程度に思っていました。でも兄の側で見守るあなたや、僕達の為に竹刀を持った晋助さんの姿を見ていると、どちらかが決して欠けてはならない、そんな風に思うのです」

比翼の鳥とは、翼を並べて飛ぶ鳥というような安易な意味ではない。古代中国では様々な空想上の神獣が生みだされ、比翼の鳥もそのひとつである。一翼一眼の鳥で、左翼左眼が雄、右翼右眼が雌。落下することなく天空を翔ぶには、雌雄が一体となって翼を動かさなくてはならない。互いの翼の揚力が相手に伝わるほど立派に飛ぶといい、ひいては愛情の深い夫婦を指す言葉だ。
果たして、自分達はそうだろうか。自問した薫は、乾いた声で笑った。

「そんなんじゃないわ」

否定するのに、自然と口調が粗っぽくなる。否定するのは悲しいはずなのに、笑ってしまうのは何故だろう。

「私達は、そんなんじゃない……」

例え二人揃わなければ翔べないとしても、晋助はそんな事に構いはしない。翼が片方しかなかろうと、己の復讐の為ならば彼は片方の翼だけでも翔ぶだろう。翼が傷付いても、羽根が落ちても羽ばたきを止めはしない。鬼兵隊総督という肩書きを背負う彼は、数多の群れを先導する使命を負っている。たとえ羽根が最後のひとひらになったとしても、彼は使命を護り抜いて群れを導く。

薫がともに巣を守ろうなどと言っても、そんな些細な願いなどきっと聞いてはくれぬ。安寧の地で末永く暮らしたいという彼女の願いは、彼にとっては翼の一振りで掻き消えるようなものだ。どんなことがあっても、彼は復讐を遂げるために己の信念を貫くはずだ。

翼など欲しくはない、と彼女は思った。晋助は一度飛び去ってしまったら、すぐに手の届かない所へ行ってしまうのだろう。取り残されて孤独を味わう惨めな姿を思い浮かべれば、最初から翼なんて無くてもよい。
だが一方で、それは贅沢な悩みかもしれないのだ。心の底から翼を欲しいと願っても、叶わぬ者があることを彼女は知っていた。

「物事は上手くゆかぬようにできているものですね。鷹久様こそ本当に、翼が欲しいと思っていたでしょう。文武に秀で立派な翼がある鴨太郎様だって、競う相手がいれば、羽根はなお強靭で確かなものとなったでしょうね」
「学問や剣術に励み努力を重ねた結果、得たものが翼だとしたら、それは本当に僕の欲しかったものではありませんよ」

鴨太郎は俯きがちに、数度首を横に振った。

「やっと、自分の本心に気付きました。僕はただ、兄さんが羨ましかったんだ」

幼い子が嘘を告白するような、素直な言い方だった。

「両親に愛され、心配されて、母上に優しい言葉をかけられて、抱き締められて……僕も、兄さんのようにして欲しかった」

彼は小声で言って、たてた膝の間に額を埋めた。悲しみに堪える子どものような仕草が憐れで、薫は手を伸ばして彼の肩に触れた。

「本当は、元気な兄さんでいてほしかった。一緒に遊んだり、兄弟喧嘩をしたり、切磋琢磨できる相手が欲しかった。……兄さんと話をしようと思い、昨日から僕は中居間で過ごしています。でも兄さんは、ずっと眠ったままだ」

薫ははっと胸を突かれた。兄弟仲良く過ごしているだろうというのは、彼女の思い違いだった。あれほど生き生きとして試合を見ていたのに、鷹久の容態が芳しくないとは夢にも思わなかったのだ。

眠り続ける兄を、鴨太郎は一体どんな思いで見つめているのだろうか。彼は膝の間から顔をあげると、悲痛に顔を歪めて海を見つめた。

「もう、話せないかもしれない。僕はこのまま、兄さんが静かに息を引き取るのを見ているしか出来ない」

彼は切迫した声で言った。悲哀の色が漂う瞳に、みるみる涙の膜が張り、つうと一筋頬に流れ落ちた。

「こんな景色を、兄さんにも見せたかった……」

波の音にかき消されそうな、か細い声で彼は呟いた。底知れぬ悲しみに胸を掻き乱さずにいられない。鴨太郎が兄を羨ましいと思うのと同じように、鷹久も、健常で元気な弟が羨ましいに違いない。二人で学問や剣術に励み、競い合って高め合い、共に駆け回って遊びたかった。お互いがお互いにとって、かけがえのない理解者になりたかった、そうに違いない。薫はなんとかそれらを伝えたかったけれど、悲しみに胸がつかえて、うまく言葉にできなかった。

がらんとした浜辺には、日暮れとともに哀愁が迫っていた。凪いだ海の青色は、涙の色をしていた。
もしかしたら鴨太郎は、兄の最期に、己の気持ちの整理をつけるために白浜海岸へ来たのかもしれない。限りなく澄んだ空と海の青色と、細やかに耀く砂浜を見ていると、あまりの眩しさに涙が溢れそうになる。それはまるで、天国へと続いているような景色だった。



(第四幕 完)


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