鬼と華

□水天一碧 第五幕
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薫は晋助の帰船を待ちながら、甲板へ出て港を眺めた。日は暮れかかり、海の色が濃い藍色をしていた。遠くにある灯台の橙色の光が点滅しており、停泊する船にもぽつぽつと明りが灯り始める。見慣れた夕暮れの風景なのに、どことなく心許なく、侘しさが染みわたってゆく。

彼女は目を閉じ、白浜での日々に思いを馳せた。願っても叶わぬことなどこの世に数えきれぬ程あるのに、白浜のひとときは、平穏に対しての強い羨望を抱かせた。砂浜のようにどこまでも平らで穏やかな暮らしの中で、凪のような愛情に包まれる、それは彼女にとって限りない歓びに満ちたもので、幸福の象徴であった。

しかし、“幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴う”、かつての作家はそう記した。晋助は日常の倦怠に沈むことを嫌う男だ。ただ前だけを見て進む。変化を求め、どこまでも飛んでゆく。その背中を追いかけることもまた、彼女にとっての幸福であることに間違いはない。

幸福や平和というのは、人生の中のほんの短い時間の中で、例えば太陽の光が海面に移り、波が宝石のように美しく煌めく、そんな一瞬の場面に目を奪われるのと似ているものなのだ。そして孤独も、決して遠くにあるものではなく、日常の中に影を潜めて常に存在している。

薫がそう己の気持ちに折り合いをつけた時だった。船へ続く桟橋を歩んでくる人物が目に飛び込んだ。薄闇に溶け込むように暗い色の羽織を着ていたが、金色の見覚えのある髪色に、彼女はあっと声を上げて手を振った。

「鴨太郎様!お久しぶりです」

鴨太郎は軽く手を挙げて答えると、甲板へと駆け上がり、薫のもとへ駆け寄った。

「薫さんにご報告があります。僕は深川道場の塾頭の立場を、後任に譲ることにしました」
「まあ。では、これからのお仕事は……」
「真選組の入隊試験の合格が決まりました。これまでの僕の経験や能力から、新たに参謀という役職を設けることを検討しているようです」
「真選組……?!」

真選組といえば、幕府直轄の武装警察である。鬼兵隊などの攘夷派集団とは真っ向から敵対する立場だ。鴨太郎がもし、晋助との接触を真選組に内通するようなことがあれば、鬼兵隊が危機に晒されるのは明らかだ。
薫の不安を察してか、鴨太郎は余裕を見せて微笑んだ。

「僕があなた達との関わりを幕府に告げるようなことはしません。どうか安心してください」

ですが、と彼は続け、目許に寂しさを滲ませて言った。

「こんな風におおっぴらに船を訪ねるのは、これが最後になるでしょう。僕は、白浜であなたに出逢えてよかった。奇遇にもあなた達とご縁があったお陰で、自分の道を見つけることができました」

鴨太郎が別れを告げに来たのだと解ったので、薫は微笑んで言った。

「鴨太郎様なら、どんな環境でも立派に務めを果たせるわ。どうか、お身体に気を付けて」
「はい」

鴨太郎は凛々しく頷き、覚悟を決めたような引き締まった表情で言った。

「夭逝した兄の分まで、兄が、僕がこの世に生きたんだという証を刻みたい。その為に上を目指して飛び続けます。もう、自分の道に迷いはありません」

彼は頼もしくそう告げて踵を返した。薫は甲板から身を乗り出して、彼の後ろ姿を見送った。彼は一度も振り返ることはなかった。背筋を張り、真っ直ぐに歩む彼の姿は勇ましかった。兄の鷹久も、その姿を空から見守っているに違いない、彼女はそう確信するのと同時に、彼を迎える新たな環境が、どうか孤独とは遠い場所にあるようにと願った。

柵に手をかけ、目を閉じる。頬を撫でる風や遠く響く波の音に感覚を澄ませて、白浜の記憶を手繰り寄せようとした。胸をかきむしりたくなるような恋しさと切なさが同時に込み上げ、白浜で過ごした七日間は、幸福と苦痛が同じくらい併存していたのだと知る。

目を開けると、二羽の白い鳥が滑空していくのが見えた。ねぐらへと帰るのか、二羽は同じ速さで風を切り、同じ形の翼を左右に羽ばたかせていた。空の彼方に翼が見えなくなるまで、彼女は彼らを見送った。

これから天を舞う鳥を見る度に、翼に恵まれなかった兄と、新たな翼を得て羽ばたく弟の未来を思うだろう。そして願わずにいられない。いつの日か、どうか二人が揃って翼を大きく広げて、どこまでもどこまでも、天高く舞うことを。



(水天一碧 完)


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