SHORT STORYA

□Rainy Blue
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外は相変わらず、小降りだが切れ目のない雨が続いていた。窓には雨粒が集まって雫となり、流れ星のように次々と縦に落ちていた。外を歩く人や向かいの建物の明かりが、ピントのずれたファインダーを覗くようにぼやけている。

私はぬるくなったカフェラテを、音をたてないように静かに飲んだ。甘い味が喉を伝ってお腹に落ちるのを感じつつ、本を読む振りをしながら目の前の高杉さんを観察した。

黒縁の眼鏡の向こうの瞳が素早くパソコンの画面を追いかけ、両手はカタカタと小さな音でキーを弾く。彼の手許にあるデミタスカップに入っているのはエスプレッソだ。私はブラックは飲めるけれど、エスプレッソは濃過ぎて苦くてとても飲めない。彼はこじんまりしたカップを器用に指先で持ち、仔猫が水を口に含むような仕草でちびりちびりと飲んでいる。指先や唇の動きが妙に妖艶に思えて、いやでも彼と過ごした夜の記憶が蘇る。好きなカフェラテの味や、読みかけの新書の内容がどうでもよくなってしまうくらい、頭のなかが妄りがましい映像でいっぱいだ。

暫くして、高杉さんが眉間に皺を寄せ、不愉快さをあらわにして言った。

「そんなに人をじろじろと見るなよ。気になって仕方ねェ」
「すっ、すみません……」

私は謝り、咄嗟に本で顔を隠した。それから気を取り直して本を読もうとしたけれど、同じところを何度も読み返すばかりでさっぱり頭に入ってこなかった。
すると高杉さんがキーボードに指先を走らせながら、独り言のように言った。

「女は男の手を見るのが好きだよな」

はい、見ていましたと正直に返事をするのも憚られ、黙っていると、

「外国の作家が書いた小説に、確かこんな一節があった。……『手は、人生を物語る。自分にできること、やってきたことはここに写し出されている。この手は私の推薦状であり、履歴書だ』」

そう彼が言った。履歴書という表現が面白いなと思ったが、確かにそうかもしれない。ブドウ畑を営んでいた祖父の手は、よく日焼けして皺だらけで、働きものの手だった。ピアノ教室を営む母の手は、細長くてつるんとしていた。
同じように、職人の手は手の皮が厚くて全体的に黒ずんでいる。力仕事をしている人の手は、大きくて節々が目立ち、ところどころに傷跡がある。手というのは、生活の中で何に触れて何をしているかを、最も雄弁に語るパーツだ。

高杉さんの手を、もう一度ちらりと盗み見る。ライターという職業を表す彼の手は、ごく普通の形をした、男の人にしてはすらりと細長くて、きれいな指。とても器用に、優しく肌に触れる指。

「俺が思うに」

高杉さんはそう言うと、突如として身を乗り出し、私の耳許に顔を近付けた。そして秘密の内緒話をするように、こっそりと告げた。

「女が男の手を見るのは、セックスの時にその手がどんな風に動くかを想像して品定めしてるんだ」
「!!」

私は思わずパッと耳を押さえた。この人は思考を読み当てる能力でもあるのだろうか。それとも私の顔には、何を考えているのかが仔細に書かれているのだろうか。息の温度を感じる程の距離で囁かれた一言はまさにその通りで、顔がカアッと熱く火照る。

「あの……真昼間から変な事言うのやめてくれませんか」
「ってことは図星だな。真っ昼間から変な事を考えるのはどっちだよ」

う、と言葉に詰まると、彼は意地悪な笑みを浮かべて言った。

「お前はもう知ってるだろ。俺の手がどう動くのか。そんな風に見られると、何を期待されてるのかと勘繰っちまうね」
「期待だなんて、そんな……!」

言いかけた時、携帯がピコンと鳴った。しまった、マナーモードにするのを忘れていた、と思って慌てて取り出すと、銀時からラインが来ていた。

“仕事終わるの12時くらいになりそう。遅くなってゴメン!”

パンダが土下座するスタンプと一緒に、そんなメッセージが届いていた。そして続けて、

“今日は外で昼飯食おう。何食べたい?お前の好きなものでいいよ”

とメッセージが届いた。今度はウサギが楽しそうに跳び跳ねる、動くスタンプが表示された。

それを見て、私は小さく溜め息をついた。仕事がちょっと長引いただけでゴメンと謝る優しさや、何が食べたいかと訊ねる気遣いが、今はちょっとだけ息苦しい。私が本当にして欲しいのはそんな事じゃないのに、銀時はそれを知らないし、私は彼に言えないでいる。

「カレシから連絡か?」

と高杉さんが言った。カレシ、という言葉にほんのりと嫌味が込められていた。私が恋人とセックスレスだということを知ってるから、そんな男でも彼氏と呼ぶのかという嘲笑のようなものを感じ取った。
セックスレスでも一緒にいて幸せな時もあるし、穏やかな生活を続けたいと思うくらいには銀時のことが好きだ。高杉さんにそれを理解してもらおうとしても、また意地悪な事を言われそうなので、私は二度目の溜め息をついて言った。

「私、そろそろ帰ります。もうじき彼が帰ってくるので」

私は残っていたラテを一気に飲み干し、帰り支度をした。当然のことながら、高杉さんは引き留めることもせずに再びパソコンに向かった。俯いた端整な横顔を見ながら、ふと、銀時の仕事が長引いていたら、もっと色んな話ができたかもしれないなと思った。偶然にも向かいの席に座れたのだ。手についての不埒な妄想や意地悪な揶揄いなんかじゃなく、例えば、高杉さんがライターの仕事でどんなものを書いているかとか、書籍の海のような仕事部屋で、一番お気に入りの本はどれかとか、そういう他愛もない数々の事を。

トレーを持って立ち上がった時、高杉さんが目を伏せたまま言った。

「本当は、お前が来るまで向かいの喫茶店にいたんだ。あそこは二階で煙草が吸えるから」
「えっ?向かいのですか?」

私は驚いて訊き返した。確かに、道路を挟んだ向かい側の建物にも喫茶店がある。二階が全面喫煙席なので、お店が全体的に煙っぽくて一度しか入ったことがない。彼は続けた。

「窓側に座っていたら、偶然見知った顔を見つけてこっちに来てみたんだ。お陰で煙草が吸えなくて困ってる」

内心、嘘でしょと思っていた。私は視力がよくないので、向かいの喫茶店に誰がいるかなんて目を凝らしても分からない。それに外は雨だ。雨粒だらけの曇ったガラス越しに、人の見分けがつく筈がない。

「高杉さん、視力すごいですね。アフリカの人みたい」
「いや、俺だって特別目がいい訳じゃねェよ」

彼は眼鏡の縁をトンと指差しながら微笑み、

「なんとなく、お前だってわかった。こういう勘はたまに当たるんだ」

と穏やかな声で言った。
これから家に帰るというタイミングで、一体どんな意図をもって思わせ振りなことを言うんだろう。これでは、帰りにくくなる。――いや、帰りたくなくなる。

「……お仕事、頑張ってください」

私は振り切るように席を立った。一階へと下る階段を降りながら、様々な思いが脳裡を交錯する。もしも、この前の出張のように銀時が帰ってこないと分かっていて、知られることがないと確信できるなら、私はどんな行動をとっただろう。もしも高杉さんに誘われたら、また頷いて彼の手をとるのだろうか。

幾つもの“もしも”を想像しつつ外に出る。いつの間にか雨があがって陽射しがさしていた。空を見上げると、風に流された雲が風下に遠ざかり、くっきりと境界を引くように、雨雲と青空とが半分に分かれていた。不思議な景色だった。

苦いエスプレッソを飲む隣人と、甘いコーヒーが好きな恋人と。飲み物の好みにきっぱりと区別をつけるように、自分の気持ちにもそういう風に境界線を作れればいいのに。空模様に自分の心を重ねて、私は隣人の肌を恋しがりながら、恋人と暮らす家へと道を急いだ。



(Rainy Blue 完)


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