恋暦

□第一章 春告草
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時は江戸。
井上薫は、長州藩士井上六郎の長女として、周防国湯田村に生まれた。
高杉晋助は、萩城下菊屋横丁にて、長州藩士高杉大忠太の長男として生まれた。


ふたりが初めて出逢ったのは、梅の蕾が開いた、冬の終わりのことだった。




◇◇◇




ある日、晋助は父親の大忠太に連れられ、湯田村の井上家を訪れた。高杉家と井上家は旧くから交流があり、互いの行き来も頻繁であったが、双方の子ども達は会ったことがなかった。
この度の顔合わせが相成ったのは、晋助が来春から入学する藩校に、薫も同時期に入学することが決まったためだった。



井上邸の応接間では、六郎と大忠太が談笑していた。晋助は父親の隣で、口をつぐんでじっと座っていた。大人達の話に、面白いことなど何もないのだ。彼らの口に上るのは、藩政の動向に始まり、世を憂うことばかり。幼い晋助には、ただ退屈な時間であった。

唯一、晋助の関心を惹いたのは、井上邸の広大な庭園だった。庭には、高杉家の屋敷には見当たらない、様々な植物が植えられていた。
中でも晋助の興味を引いたのは、枝葉ばかりの木々の中で、唯一花が咲いている梅の樹だった。濃い紅色の蕾は、庭の中では一際目立っていた。

応接間は庭に面しており、晋助はぼんやりと、障子に映る木々の形を眺めていた。


やがて、その障子がそろりと開いた。隙間から、黒々とした瞳が見える。ひとりの少女が、部屋の様子をじっと窺っているのだった。
大人達は、気付かずに話を続けている。晋助は好奇心に耐えかねて、父の袖を引いた。

「父上、女の子が、そこに」

「おや?」


大人達の視線が集まると、少女はひょいと頭を隠してしまう。
六郎はくすくすと笑いながら、手招きをした。


「ほら、薫。こちらへおいで」

すると、少女は気恥ずかしそうにして、中へと入ってくる。
六郎は彼女の頭を撫でながら、優しく言った。

「薫、大忠太殿の御子息の、晋助君だよ。御挨拶なさい」

「はい、父上」

人形のような子だ、と晋助は思った。
切り揃えられた黒髪。桃色の唇。。よそ行きの赤色の着物は、白い肌に眩しく映えて、よく似合っていた。

彼女はちょこんと正座をすると、指をついて頭を垂れた。
丸い瞳が、晋助をまっすぐに見ていた。

「はじめまして。長州藩士井上六郎が娘、薫でございます」

「立派なお嬢さんだ」

と、大忠太が楽しそうに笑った。

退屈している晋助を気遣ったのだろう。六郎は、子ども達を促した。

「ほら、薫。晋助君に庭を案内してさし上げなさい」

彼女はこくんと頷くと、晋助に目配せをして立ち上がった。



膝をついて、襖を閉める小さな手。自分より少し低い背丈の、肩にかかる黒い髪。
先を歩む、澄ました横顔。

薫の動作のひとつひとつから、晋助は目を離せなかった。




外へ出たふたりは、苔の生えた庭園を歩いた。
枝ばかりの木々の中で、梅の花が咲く様子が美しかった。近くで見ると、尚更であった。


「梅の花には、別の名があるのはご存知ですか?」

と、薫が尋ねた。

「梅は、春に咲くから、春告草……鶯は、春に鳴くから、春告鳥」


少女の頬や唇は、花の色と、同じ色をしている。

「ねえ、晋助様は、春は好きですか?」










きっと、春が巡り、花が咲く度に。
初めて少女に出逢った今日の日のことを、思い出すだろう。



その時から、晋助にとって、春は特別な季節となった。








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