恋暦

□第八章 寒蝉鳴
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七夕の数日後は、太陽が燦々と照りつける、夏の盛りだった。
茹だるような暑さが続き、攘夷派の仲間の情報では、天人に目立った活動も見られないようだった。
体力を消耗した晋助には、十分な休養の時間が確保できたことになる。


ある日の午後、薫が身支度をして屋敷を出ると、門の前で小太郎とすれ違った。
軽く会釈をする彼女に、小太郎は無言で頷いて見せる。
しかし、

「薫殿、どこへ行く」

と、思い止まったように、彼女を呼び止めた。

「薬を買いに、街へ行ってきます」

薫は正直に答えた。
床に臥した晋助に飲ませる薬が無く、猛暑の中、麓の街まで下りなくてはならなかった。

小太郎は少し思案して、刀を携えた。

「俺も行こう。独りで街へ出るのは危ない」



二人は山を下り、宿場町の往来を歩いた。
強い陽射しが、眩しく照りつけていた。ジージーと蝉の声が鳴り響き、歩く度、汗が額を伝う。
街への道は、乾いた土を蒸らしたような、夏の匂いがした。

小太郎は街の地理に詳しいのか、薬屋までの道を迷わずに進む。薫は黙って、彼に続いた。
先を進む小太郎の背中は、何かを伝えたい様子にも見えたが、彼もまた、道中無言であった。


必要な薬を買い、屋敷への帰り道だった。

「この間は、みっともないことをした」

と、小太郎が言った。
雨が降った七夕の、出来事のことである。

「高杉を心底憎んでいる訳でも、お主の気持ちを、否定したい訳でもないのだ」

堰を切ったように、彼は言葉を繋げた。

薫は、彼の端整な横顔を見上げた。
わかっている。
彼から伝わるのは、そんな捻じ曲がった感情ではなく、真っ直ぐで、もっと切実な何かだ。


小太郎は立ち止まり、隣の薫をじっと見つめた。

「御主に逢うて、俺は初めて、恋というものを知った」

と、彼は言った。
街を行き交う雑踏の中でも、その声はとても鮮明に聴こえた。

「それがどんなに苦しくて、どれ程切ないものかも……俺は、知らなかった」

彼は一点の濁りもない、澄んだ瞳をしている。

その表情が切なく歪むのを、薫はただ、見守るしかない。

「お主が高杉に向ける想いも、このようなものなんだろうか」

自問するように、小太郎は言った。

同じ痛みを抱えている、と薫は思った。
何時だって、そうだ。
晋助を想えば想うほど、胸が締め付けられる。
確かな言葉を伝えたい。でも、溢れる想いをうまく紡ぐことが出来ず、言葉を、確かなものを欲しがる。

なんて人は、貪欲で、我が儘になるんだろう。

広い世の中の、たったひとりの、人の為に。


「桂殿、私は……」

「何も言わなくていい」

言いかけた薫を遮って、小太郎は静かに首を振った。

「薫殿の気持ちは、初めて逢うた時から知っているのだ。
俺とて、明かさずに胸の内に秘めておけばいいものを……困らせるような事を言ってしまって、すまない」

「そんなことは……」

「薫殿がこれまでと変わらずに接してくれるなら、俺は友として、御主のことを想おう」

そう言った小太郎は、清々しい顔をしていた。
そのまま、再び薫を促して、歩み始める。


「この辺りの街には、秋祭りの風習があるそうだ」

歩きながら、小太郎は言った。

「賑やかな出店もたくさん出る。また、皆で出掛けよう」


彼はいつも通りの、穏やかな表情に戻っていた。


恋は盲目とよく言うけれど、その事に気付くのは、他人(ひと)の恋を知った時かもしれない。
自分自身のことは何時だって、知っているようで知らないもの。

哀しい目をしていると、小太郎は薫に言ったが、それは辛い想いをしているからではない。

恋をしている目なのだ。



妙齢の女も、攘夷志士を束ねる総大将も、誰だって恋をする。
苦しくて、切ない思いを抱えても。

まるで、巡る季節のように。
どうしたって、止められないものだ。



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