隣人と二度、恋をする

□chapter1. neighborhood
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【実は増えてる?仲はいいけどセックスレス、なカップル】

美容院で何気なく手にした雑誌、目次のそんな見出しに目が留まった。

ちらりと鏡に目を向けると、担当の美容師さんの姿はなかった。カラーリングが終わるまで、まだ時間はある。私は雑誌の、後ろの方にある二色刷のページに指を差し込んだ。

女性向けのファッション誌は、流行りの服を着た綺麗なモデルさんが笑い、女心をくすぐる小物や化粧品が数多誌面を彩るのに、どうして華やかなページの陰に下世話な話題を載せるんだろう。二色刷りの地味な色合いで性に関するテーマに触れるのは、人に言えない聞けない、でもファッションよりも気になってしょうがない、そんな女の子たちの声を代弁しているようだ。

細かな文字を流し読みしていくと、どうやら二十代のカップルでも、十組に一組はセックスレスに悩んでいるらしい。高校生の頃読んでいたティーン誌には、初体験のノウハウや体験談が載っていて、学校の授業より真剣に読んでいたのに、十年経てばレスの字が誌面に踊るようになる。
そして私が一番驚いたのは、レスの定義だった。一ヶ月以上性交渉がない、その雑誌にはそう書いてあるけれど、一ヶ月なんて、日々仕事に追われていたらあっという間に過ぎてしまうと思うけれど……

「髪、沁みてないですか」
「!はい!大丈夫です!」

頭上から声がして、私は雑誌をバサッと閉じた。カラーの状態を確かめに来た美容師さんが、鏡越しににこやかに言った。

「そろそろ流しましょう」

私は頷いて笑顔を返して、何も見ていなかった振りをしながら、雑誌を鏡の前に戻した。


春がくると、明るい色合いの服を着たくなるのと同じで、髪型を変えたくなる。私は長かった髪を肩の上で切り揃え、ナチュラルブラウンに染めた。

美容院からの帰り道、短くした髪が春風に泳いで、首の後ろが妙にくすぐったい。髪を変えただけなのに、周りの景色がいつもより明るく見えるのは気分のせいだろうか。近所の小学校にある桜の木は、暖かい空気でぐっと蕾が膨らんだように見えた。天気予報と一緒に桜の開花情報が報道される稀有なこの時期、もうじき東京にも開花宣言があるだろう。

この町の桜を見るのも、もう何度目かになる。毎年毎年開花が待ち遠しいのは、一緒に花を見たいと思う人が、側にいるからかもしれない。


「ただいまー」

帰宅すると、同居している恋人は、眼鏡越しの目をまん丸にした。

「結構短くしたんだな!色も変えた?」

リビングのソファーで漫画を読んでいた彼―――銀時は、珍しいものでも見るかのように、まじまじと私を見た。

「へえ、いいんじゃない。お前小柄だから、短い方が似あうよ」
「チビで悪うございましたね」
「今のは、可愛いって褒めたつもりなんだけどな」

彼は微笑んで、私にむかって小さく手招きをした。隣に座ると、ヘッドロックをするように腕を回して抱き締めてくる。彼の服からはお日様の匂いがして、じんわり伝わる暖かさに、ああ、我が家へ帰って来たと思う。

「俺もそろそろ髪切りにいかねえと」
「そうね。結構伸びたものね」

私は彼の肩に顎を乗せながら、彼の髪の毛に指を絡ませた。銀色の髪が、午後の白っぽい光に透けてきらきらと光っている。たとえ私がどんな色に染めたとしても、きっと、彼の銀色よりきれいな髪にはならないだろう。

「私、銀時が髪を染めたら嫌だな」
「なんで?」
「銀時の髪が好きだから」
「好きなのは俺の天パだけかよ」
「そういう意味じゃなくて、この色が私の側から無くなったら、悲しいなと思って」

梅雨時期は髪が爆発して困るとか、床に落ちた毛が陰毛みたいだと、彼は天然パーマを嫌ってばかりいるけれど、私はふわふわの柔らかい髪が好きだった。

彼は、眼鏡にかかる髪の毛をかき上げて、漫画に目を落としながら言った。

「なァ楓、今日の晩飯、餃子が食いたい」
「餃子?どうしたの、急に」
「漫画読んでたら食べたくなった。一緒に作ろうぜ」
「何の漫画?」
「三月のライオン」
「……三月のライオンってグルメ漫画だっけ」

ちら、と覗き込んだページに描かれた餃子は確かにおいしそうで、銀時と餃子を焼くのを想像したら、急にお腹が減ってきた。餃子いいねえ、と言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。

彼がいいなと思うものは、大体の場合私も心が惹かれて、意見が対立することはまずない。嗜好が似通っているのは、付き合いが長いせいもあるかもしれない。銀時とは大学を同じ教育学部で学び、二年生から付き合い始めて、今年で八年になる。

社会人になるのと同時に、家賃の節約も兼ねて同棲を始めた。川の側にある、グレーの壁の賃貸マンション、502号室が私達の家だ。器用で、たいていの家事は何でもこなしてしまう彼との暮らしは快適だった。平日の夕食は早く帰宅する方が作る、作っていない人が後片付けをする。洗濯は二日に一回、彼の仕事。毎日の掃除は、私の仕事。自然に出来上がった生活のルールに、何一つ不満はなかった。テレビを見ていても、漫画を読んでいても、同じところで笑い同じところで感動した。似た者同士の私たちは、お互いの存在を尊重し、心地好い暮らしを築き上げてきた。

ただ、問題があるとすれば、私たちは、十組に一組のセックスレスのカップルだということだ。そして最後にしたのは、一か月前どころの話じゃない。二年以上前だ。



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