隣人と二度、恋をする

□chapter1.neighborhoodA
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新宿という場所は、何度来ても好きになれない。交通の便がいいので人が集まるのは分かるけれど、如何せん人が多すぎて眩暈がする。駅は地下と地上が複雑に入り組んでいて道が分かりにくくて、以前目的地にたどり着けず途方に暮れた経験があるせいか、まず一人では来たくない。

土曜の夜、ごった返す駅の構内を、銀時は東口改札に向かってすたすたと進んでいく。立っているだけで窒息しそうな人ごみだった。私が一歩出遅れて、しまったと思った時、にゅっと彼の腕が伸びて手を掴まれた。

「迷子になんなよ」
「うん」

がっしりと握り合う手に何とも言えない安堵を感じて、私は彼にぴったりと寄り添って歩いた。

駅の改札を出て階段をあがると、アルタの向かいに出た。18時少し前、大きな電飾の看板が眩しかった。新宿御苑あたりで一足早いお花見を楽しんだのか、この時間にしては出来上がっている人たちの集団が往来を賑わしていた。
並木道を歩いて靖国通りを突っ切ると、少しして歌舞伎町一番街の赤い看板が見えてくる。ここで、銀時の育ての親がお店を経営しているのだ。

そこは、ビルとビルの隙間にある狭い入り口から、更に階段を上った二階にある、小さなスナックだった。

「ただいま」

銀時は、いつもこう言ってお店に入る。
カウンターの奥にいた着物姿の女性が、にこやかな笑顔を向けた。

「やあいらっしゃい。元気かい、楓」
「お久しぶりです、お登勢さん」

彼女がお店のママで、本名は寺田綾乃さんというのだが、その名で呼ぶ人はまずいない。『スナックお登勢』というお店の名前から、誰しもがお登勢さんと呼んでいる。

他のお客さんの邪魔にならないように、私達はカウンターの隅に並んで座った。外国籍の従業員さん―――このお店で一番勤続が長い、キャサリンさんという顔の濃い女性が、銀時の前にビール、お酒を飲めない私のためにウーロン茶を出してくれる。
お通しは牛筋の煮込みだった。小鉢に大盛りによそいながら、お登勢さんが言った。

「どうだい仕事は?忙しいのかい」
「まあ、普通」

銀時があまりに素っ気ない答えをするものだから、私は側から口を挟んだ。

「担任していた生徒たちが、この春三年生になるんです。受験を控えてるから、進路相談とか面談とか、気苦労が増えて大変みたいですよ」
「そうかい。まあ、親御さんにしてみれば、子どもにとって大事な時期を任せる訳だから、しっかりやんなきゃあね」
「結構、保護者の方に人気があるんですって。話が上手くて面白いって、面談の時にお母さんたちから好評で、ハートはガッチリ掴んでるみたいですよ」

お登勢さんと私が楽しく話している間、銀時は照れ臭そうにそっぽを向きながらビールを飲んでいた。普段の銀時はとてもお喋りなのに、お登勢さんの前だと急に口数が少なくなる。わざとなのか元々なのか、親と話したくない思春期の男の子を見ているようで、微笑ましい気持ちになる。

親、と言っても、お登勢さんは銀時の産みの親ではない。本当の両親は、いないのだと言う。
学生時代彼と知り合い、家族や兄弟の話になって、私自身の家庭環境を打ち明けた時だった。

―――うち、お父さんいないの。昔、よそに女の人作って出てっちゃった。

すると銀時は、そっか、と呟いて言った。

―――俺は、両方いない。

児童養護施設で育ったのだと、彼は自分の生い立ちを教えてくれた。どんな事情で施設に入ったのか、両親はどうしているのか、その事情は詳しく聴かなかったけれど、“いない”とだけ言った銀時の表情が痛々しくて、それから彼のことを放っておけなくなってしまった。

彼は高校生くらいから、縁があってお登勢さんの家で暮らすようになったらしい。学生時代はそこから通学していたから、付き合い出した時も、卒業して同棲を始めた時も、ふたりでお登勢さんに報告をしていた。


お登勢さんは銀時の前に二杯目のビールを置きながら、唐突に言った。

「次にあんた達が来るときは、子どもが出来たとか、そういう報告だと思ってたんだがねェ」

すると、銀時がブッと音をたててビールを噴き出した。

「結婚もしてねェのに、順番がおかしいだろ!」
「あんた達、何年間一緒に暮らしてるんだい。もう結婚してるようなモンじゃないか」
「してねーよ。そーゆうのは……俺達なりのタイミングってモンがあるんだよ。ババアがごちゃごちゃ口出しすんじゃねェよ」
「じゃあ、あたしが死んじまう前に、せめて孫の顔は見せとくれよ。頼むよ、楓」

頼まれても困るのだが、私はハイ、とだけ返事をしておいた。
お登勢さんの旦那さんは若くして病気で亡くなったそうで、お登勢さんには子どもがいない。銀時も私も子どもがいてもおかしくない歳だから、銀時の子どもが生まれたら、きっとお登勢さんはめちゃくちゃに可愛がるんだろう。


お登勢さんに別れを告げて新宿駅に戻ると、ちょうど九時を回ったところだった。人込みをかき分けてホームに降り、帰りの電車を待つ。
遠出というほどでもないのだが、新宿に来て人の多さを目にすると、随分遠くまで出てきたような気がするものだ。

「お登勢さん、元気そうで良かったね」
「あァ」
「なんか、デートの帰りっぽくていいね」
「ババアの店で飯食っただけだからなあ。あんまり色っぽくないデートで悪ィなあ」

ビールを飲んだ銀時は、酔っ払ったのか間延びした声で言った。
電車が来て、席に座ってスカートの皺を伸ばしていると、彼がそれに気づいた。

「お前のその服、いつもと違ってていいな」
「そう?」

私はとぼけた振りをした。本当は、新しい服だった。久しぶりにお登勢さんの所へ行くと言うので、大ぶりの花柄をモチーフにした、春らしいスカートを買ったのだ。

「可愛いよ。またそういう恰好してさ、今度は奮発していい店に行こうな」
「うん」

私は銀時の手を手繰り寄せて、手を繋いで指を絡ませた。手のひらが温かくて、こうしていると彼の心の温もりまで伝わるようだ。特段報告することがなくても、育ての母親の顔を見に行く優しさを、ただただ愛おしく思う。
好きだと思う度に、キスをしたり、それ以上のことをして気持ちを伝えたい。そんな風に思うのは、私だけなのだろうか。

銀時と最後にしたのは、確か二年前の冬、東京に珍しく大雪が降った日だった。もともと彼の方からしたがることは滅多になく、その時も三か月振りくらいで、私は勇気を出して、本当に勇気を振り絞って誘ってみたのだ。

でも、出来なかった。銀時はうまく勃たなかったし、そればかり気になってちっとも集中できず、私もあまり濡れなかった。

―――ごめん、楓。

彼はこっちが悲しくなるくらい、申し訳なさそうに言った。

―――疲れてるんだな。このところ忙しかったから。お前のせいじゃねェから。今度、ちゃんとやろう。

私に原因があるのではない、自分の体調が原因なのだと、彼は説明した。
でも、その出来事がトラウマになっていて、私は自分から誘うことができなくなってしまった。当然、彼からのアプローチもなく、彼の言った“今度”はこないまま、時間が過ぎてしまった。ここまで来ると、何をどうしたらセックスレスを解消出来るのか分からなくなってしまう。

例えば、私の帰りが遅かった時、すぐに温められるように夕食の支度がしてあったり、誕生日がくる度に大好きなケーキを買ってきてくれたり、彼に大事にされているという実感はある。
でも、本当は、肌の温もりや息遣いをじかに感じて、お互いの体の他には何もいらないと思うくらいに愛し合いたい。隣に座って、手を繋いでいても、私達の間には決して破ることの出来ない、透明な薄いベールがあるのだ。



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