隣人と二度、恋をする

□chapter1.neighborhoodB
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年度末の仕事の多忙さに追われているうちに、近所にある桜の木はあっという間に満開になり、同じくあっという間に散ってしまった。花が散ったあと、雄蕊と雌蕊がまとわりついて枝が赤くなっているのが、遠目に見ても分かった。

これを、桜蕊というのだそうだ。花びらの散った桜は、その辺にある街路樹と同じに格下げされて、人は目もくれなくなるけれど、濃い赤色をした桜蕊が連なる様子は何とも言えない趣がある。赤い桜蕊が地面に敷き詰められいるのを見ると、ひっそりした春の終わりを告げているようだ。

――――桜は散るっていうけど、桜蕊は“降る”っていうんだよな。

いつだったか、そう教えてくれたのは銀時だった。国語教師をしているだけあって、彼は私の知らない綺麗な日本語を沢山知っていた。桜蕊が降る道は、きっと春から初夏へと続く道だ。


通勤のバスの車窓から、桜蕊の残る枝を探しながら三十分、私の職場の区役所に着いた。
採用されてから五年間は、福祉課で高齢者介護の担当をしていた。福祉課は嫌煙する職員が多くきつい部署だったけれど、この春ようやく異動の内示が出て、広報課に配属された。

直属の上司、長谷川係長はちょっと頼りない印象だけれど、優しそうな人だった。

「プレスの方とか、新聞社の記者さんには色々お世話になるから、挨拶して顔を覚えてもらってきてね」
「はい」
「印刷所の担当者には、着任の挨拶のメール送っとけばいいから」
「わかりました」
「福祉課の仕事に比べたら、まあ、広報課は楽だと思うよ。休日に広報関係のイベントがあると出勤しなきゃいけないけど、代休はちゃんと取れるし、残業もそんなにしなくていいし、まあ、気楽にね」

長谷川さんを始め、親しみやすそうな職員が多くてほっとした。
人事異動の多くが四月付けなので、ほとんどの部署で顔ぶれが一新され、空気までががらりと変わる。新入職員のオロオロした雰囲気が全体に伝播したような、地に足がついていない、ふわふわした感じが毎年苦手だった。


前任から引き継いだ書類を整理していると、携帯が光った。ラインの新着メッセージを告げる通知。
それは懐かしい、学生時代の親友からだった。



***



昼休み、財布だけを持って急いで外に出ると、庁舎前の花壇に植えられたビオラが、空に向かって花弁を伸ばしていた。ランチに出るにはもってこいの、気持ちのいい陽気だった。

「楓!久しぶり!」

と、花壇の側にあるベンチから、笑顔で手を振る女性の姿があった。カラフルなビオラの花をそのまま写したような、鮮やかな色のチュニックが風に揺れていた。

私は彼女に駆け寄ると、ぎゅっと両手を握り締めた。

「久しぶり、妙ちゃん。わざわざ来てくれてありがとう」
「いいのよ。こうでもしないと、なかなか会えないものね」
「下のお子さんは?預けてきたの?」
「この春から幼稚園なの。これで二人とも幼稚園だから、一気に手が離れた気分。いつでもランチに来れるわよ」

私たちは腕を組んで、近くのイタリアンのお店に向かった。

妙ちゃんは、私と銀時の大学の同級生だ。一年生の頃、学費免除か奨学金制度かの説明会で、三人一緒の机に座ったことがきっかけで仲良くなった。学部も一緒で、授業やお昼休みを一緒に過ごすうちに、私たちはよく三人で遊ぶようになった。

誰に対しても物怖じせず、きっぱりとものをいう妙ちゃんには、男勝りと言う言葉がしっくりくる快活な子だった。でも在学中から、年上の男性―――確か、アルバイト先で知り合ったと言っていた―――から猛烈なアタックを受けており、訴えてもいいくらいだったのだが、当のストーカーの正体は警察官だった。それを知った時、銀時と私はお腹が捩れるくらいに大笑いして、公職にある人をもぞっこんにさせる妙ちゃんを誇らしくも思った。
アプローチは在学中、四年間続いた。さすがの妙ちゃんも押しに押されて根負けしたのだろう、教育関係の出版社に内定が決まっていたにもかかわらず、卒業と同時に結婚を決めて家庭に入った。そういう潔いところが妙ちゃんのかっこいい所だし、優柔不断の私には、とても眩しい。


「私も小さい頃は、新ちゃん……あ、弟の面倒をよく見ていたけれど、姉の性分なのかしらねえ。長女は妹のやることにあれこれ口出しをして、でも妹には自分の言い分があるから、すぐ女同士の言い合いになるのよ」

妙ちゃんは二人の女の子のお母さんで、会う時はどうしたって子どもの話になる。未婚の私には遠い話題だけど、彼女にとっては生活の中心が子どもだ。夢中になるのも手を煩わせるのも、全て子どもなのだと思うと、世の中のお母さんはみんなこうなんだろうなと納得できてしまう。
彼女の話は、五歳の長女の成長ぶりについてだった。

「小さい頃から口が達者で、妹と喧嘩してるときの口調なんて、私が叱ってる時に本当にそっくりなの。いつもドキッとさせられるわ」
「お母さんのことをよく見ているのね。二人とも、妙ちゃんみたいなしっかり者になるね」

私と同い年なのに、二人の子どものお母さんだという妙ちゃんは、人生の階段の随分先を歩いているような気がする。
料理が運ばれきて暫くした頃、話題は私自身のことへと向いた。

「ねえ、楓はいつ結婚するの」
「結婚て……」
「坂田くんとよ。今も同棲してるんでしょう。早く結婚すればいいのに」

すればいいのに、という言い方に人任せなニュアンスがあるのは、銀時と私は妙ちゃんに間を取り持ってもらって交際を始めたからだ。大学二年に進級したくらいの頃、お互いに好意を持っているにも関わらず、どちらからもアプローチできずにいる私達を見かねて、彼女が仲介役を買って出てくれた。

「あなたたち、今も同棲してるんでしょう。お互いにいくら奥手だからって、そろそろ結婚、なんて話にはならないの」

レスが原因で悩んでいて、結婚に踏み込めるような心境ではない。……そんなこと、妙ちゃんには口が裂けても言えなかった。親しければ親しいほど、これは知られたくない種類の悩みだった。
私はうーん、と悩む素振りをしてから、

「妙ちゃんを見てると、結婚して子どもを産むって素敵なことだと思う。いつかは、そうしたいな」

と笑顔を作り、でもね、と言った。

「子どもが産まれて、仕事と家庭の両立もそう簡単じゃないと思うし、仕事一本っていう訳にはいかないでしょう。だから20代の時は仕事を頑張って貯金して、たまに旅行したりもして……結婚や出産は、仕事が軌道に乗った頃に、ゆっくり考えればいいかなって思ってる」

仕事、という言葉を何回使えば気が済むのかと、自分を戒めたくなる。仕事というのは唯一、妙ちゃんに無くて私にあるものだ。触れられたくないことがあるせいで、守りの姿勢に入っているのが自分でも分かった。
妙ちゃんは何かを察したのか、頷きながら言った。

「そうよね。私は卒業してすぐ家庭に入ったから、20代は育児で終わっちゃいそうよ。子どもが生まれると自分の時間なんてなくなってしまうから、若いうちに二人の時間を楽しむっていうのは、とても幸せなことね」

私たちは昼休みギリギリまでお喋りを楽しんで、庁舎へと戻った。妙ちゃんはエントランスまで一緒に来てくれて、別れ際、少し恥ずかしそうにしながら、

「実はね、楓……」

と言って、そっとお腹に手をやった。

「三人目がお腹にいるの」

私はきょとんとして妙ちゃんを見つめた。
ふんわりしたチュニックを着ていたのは、お腹を締め付けないためらしい。言われてみれば、お腹の下の方が、少し膨らんでいるようにも見えた。

「……本当?!おめでとう、妙ちゃん。よかったね」
「ありがとう。次は、男の子が生まれるといいんだけど」

妙ちゃんの笑顔には、可愛らしさの中に凛とした誇りがあった。子どもにも、旦那さんにも愛されているお母さんを象徴するような表情を浮かべながら、お腹を大事そうに撫でていた。



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