隣人と二度、恋をする

□chapter3.HOTEL-MANDARIN ORIENTAL
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関東地方の梅雨入りが発表されたのは、六月に入って間もなくのことだった。梅雨時期の空は照ったり振ったりを繰り返しながら、四六時中暗い灰色に沈んでいた。
梅雨というだけでも憂鬱なのに、それに輪をかけて祝日が一日もないという理由で、六月は嫌いな月だった。カレンダーに赤文字の日が一日もないと、損をしたような、溜め息をつきたい気分になるのだ。


一週間の仕事を終えた週末、冷蔵庫に牛乳をきらしており、私は近所のコンビニに買い物に出かけた。その日も一面の曇り空で、今にも雨が降りだしそうな空模様だった。
特に読みたい雑誌がある訳ではないけれど、雑誌コーナーに立ち寄り、適当に目についた週刊誌をパラパラと流し読みをした。雑誌の文章というのは、例えば芸能人のインタビューや有名な評論家のコラムは書き手が明確に分かるけれど、それ以外の記事は誰が書いたものなのか、よく探さないと分からない。隅っこの方に、<文・誰それ>と目立たないように書いてあるだけで、極力文章の個性を消そうとしているみたいだ。

コンビニの狭い棚に、雑然と並ぶ文芸誌。週刊誌。情報雑誌。もしかしたらこの中のどこかに、高杉さんの書いた文章があるのかもしれない。そう思うと、一冊一冊手に取って、片っ端から捜してみたくなる。
そんな風に思うほど、彼と関係を持った週末から、彼のことを考えない日はなかった。予定より三日遅れて生理が来たことに安堵し、時折彼と過ごした時間を思い出しては、お腹の奥が切なくなる感覚に酔いしれた。それは梅雨時期の晴れ間の、白い陽射しを望むように、心の底から待ち焦がれるような思いだった。

今までの私は、一年中毎日が梅雨空だった。銀時とのセックスレスに悩んでばかりで、毎日一度はそのことを憂いストレスになっていた。それが、高杉さんと関係をもったあの日から、頭を抱えていた悩みから一気に解放され、初めて太陽を仰ぎ見たように厚い雲が晴れた。
いや、状況は何も変わっていないけれど、単純に、悩まなくなったのだ。なぜなら、悩んでいた時間をまるごと……それ以上の時間を費やして、高杉さんのことを考えていたからだ。



***



買い物を済ませて帰宅すると、充電したままにしておいた携帯電話の着信ランプが光っていた。見ると、知らない番号が表示されており、出ようかどうか数秒迷ってから、着信ボタンをタップした。

「……はい」
「モシ、モシ?」

片言の日本語だった。間違い電話かと思ったけれど、

「モシモシ、楓サン?」

電話口から聴こえたのは、確かに私の名前だった。その低めの声と、独特のイントネーションでピンときた。お登勢さんのお店で何度か話したことがある、外国籍の従業員さんの声だった。

「えっと……キャサリンさんですか?」
「ハイ。アノ、オ登勢サンガ入院シマシタ。今朝早ク、救急車デ運バレテ」
「えっ」

背筋が凍りついた。人は本当に動揺したとき、思考が一旦停止する。
その後、すぐに銀時のことが頭に浮かんだ。彼は昨晩職場の飲み会があったらしく、日付が変わったあとに酔っ払って帰って来て、まだベッドで丸まっていた。

「坂田サンノ電話二何度カカケタンデスガ、繋ガラナクテ」

そこでキャサリンさんは、お登勢さんの手帳に控えてあった私の番号に電話したらしい。
お登勢さんはお店が終わった後に急激な腹痛を訴えて、血を吐いたそうだ。そのまま動けなくなって、キャサリンさんが救急車を呼んだらしい。焦る気持ちを抑えて、私はメモとペンに手を伸ばした。

「どこの病院ですか。すぐに向かいます」

お登勢さんは、千駄木にある救急病院に搬送されたそうだ。まずしなくちゃいけないのは、銀時を叩き起こすことだ。私は寝そべった彼の肩を強く掴んで、揺さぶった。

「銀時、銀時」
「……んー……?」
「起きて。キャサリンさんから電話があったよ。お登勢さんが、救急車で運ばれたって」

銀時は、がばっと飛び起きた。目をまん丸にして、マジかよ、と呟く。私が頷くと、彼はすぐさまベッドの側にある眼鏡と財布を掴み、スエット姿のまま寝室を飛び出した。
私も慌てて、ショルダーバッグに財布と携帯、鍵を入れて後を追った。追いついた頃には、マンションから出てすぐの大通りで、彼は既にタクシーを拾っていた。

タクシーに急いで乗り込み、手のひらに握り締めたメモを開く。メモは既に、手に滲んだ汗でうっすらと湿っていた。

「千駄木の大学病院までお願いします。急いでください」

休日の午前中、道路はそこそこ混んでいて、信号で止まる度に気持ちが焦った。最悪の事態を想像しては、嫌な汗が浮かんだ。
不安で不安でどうしようもなくて、隣の銀時に何度も視線をやったけれど、彼は一言も発することなく、怖い顔をして窓の外を睨んでいた。膝の上で組まれた両手は、手の甲に太い血管が浮き出るほど、かたく強く握り合わさっていた。
祈っているのだ、と思った。お登勢さんにもしものことがあったら、彼はもう、普通ではいられないような気がした。



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