隣人と二度、恋をする

□chapter3.HOTEL-MANDARIN ORIENTALA
1ページ/1ページ


楕円形をした白いバスタブに、溢れるほどのお湯をはる。部屋のバスルームにも大きな窓があって、ブラインドを開ければオフィス街に聳えるビルが夜景を彩っていた。
けれど小雨が降っているのか、遠くの方はぼんやりとしてよく見えなかった。無数に灯る窓の明かりや、ビルのてっぺんの赤いライトは、どれも水に滲んだような光りかたをしている。ビルの高低差で光は幾つも連なって、星座の形のように不規則な列をなしていた。

ジャグジーバスの、ごぼぼぼぼ……という音に耳を傾けながら、私は肩までお湯に浸かった。手足をいっぱいに伸ばしても、まだ余裕のある大きなお風呂。爪先からじんわりと暖まってくる感覚に、自然と深い溜息が漏れた。

高杉さんが取り寄せてくれたルームサービスの食事は、どれも贅沢で美味しかった。彼は食が細いのか、お酒ばかり飲んで食事はあまり摂らなかったので、彼が残した分まできれいにたいらげた。お腹いっぱいになった満足感のままお風呂に入るのは、この上なく気持ちが良い。こうしてお風呂に入って、何もしないで寝るという訳にはいかないけれど、ベッドに大の字になって、ぐうすかと眠ってしまいたかった。

暫くして、ガラ、とバスルームの半透明の扉が開いた。振り向くと高杉さんが立っていて、彼が何も身に着けていなかったので、私は動揺して目を逸らした。

「えっ、やだ、ちょっと」
「入るぞ」

彼はお構いなしに、蛇口をひねって頭からシャワーを浴び始めた。遠慮がちにちらりを視線をやると、均整のとれた上半身がみるみる水に濡れていくところだった。出ていってと強く言えず、私は膝を抱えて、窓の景色を眺める振りをした。

身体を洗った高杉さんが、ざばあと音をたててお湯に入ってくる。大量のお湯が、バスタブの縁から勢いよく流れ落ちた。大人ふたり入るとさすがに狭くて、私は小さくなって隅の方に寄った。
部屋で一緒に食事をして、シャワーを浴びて、これからすることなんて決まっているのに、同じお風呂に入るのは何だか照れ臭い。誰かとお風呂に入るのなんて、何年振りか分からない位だ。

高杉さんは濡れた髪を後ろに撫でつけて、窓の景色を見ていた。手足を伸ばせばすぐに触れられるくらい、私たちの距離は近い。天井の低い、狭い空間に閉じ込められていると、ぐんと近しい間柄になったかのような、奇妙な感覚にとらわれる。

「高杉さん」
「ん?」
「訊いてもいいですか」

ジャグジーの音が邪魔だったのか、彼はスイッチを止めた。途端にバスルームに、しんとした夜の静寂が舞い降りた。

「いつだったか忘れましたけど……高杉さん、玄関でセックスしてたでしょう。しかも朝っぱらから、ものすごく大きな声を出す女のひとと」
「ああ」

思い出したのか、彼は濡れた手で前髪をかきあげて、少し笑った。

「それなのに、ベランダで会った時に私を誘ってきたから、私あなたのこと、非常識な女たらしだと思ってました」
「そりゃあ、不名誉な称号だな」

女たらしであることを彼は否定しなかった。でも、彼と肌を合わせて言葉を交わして、今まで共に過ごした時間の中で、彼が人に寄り添う優しさを持つ人だと知っていた。
私は勇気をだして、思い切って訊ねた。

「あの人、彼女ですか」
「違う。コラムを書いた出版社のアルバイトだ」
「あれから……逢ったりしてますか」
「いや。俺は、気晴らしに足を開いて、スポーツみてェにセックスを楽しむ女は好みじゃねェ。あの時は、朝っぱらから仕事の件だと押しかけて来て、向こうがその気になったからしただけだ」

―――じゃあ、私は?

彼の気分次第では、今ホテルで一緒にお風呂に入っているのは、大きな声で喘ぐアルバイトの女の子だったかもしれない。仕事の気分転換にマンションを飛び出して、高いホテルに宿泊するという発想をする人だ。彼にとっては、一晩を過ごす女の子を選ぶのも、それと似た感覚なのだ。私を誘ってくれたのは、マンションでたまたま会ったからに過ぎなくて、ここにいるのはきっと、私でなくてもいいのだ。

それでも、私は答えが欲しかった。この、非日常な時間が偶然にもたらされたものなのか、初めから約束されていたものなのか、そのどちらかなのか知りたい。
どうして私を選んでくれたのか、彼の気持ちが知りたい。


じっと見つめる視線が煩わしくなったのか、高杉さんは急に肩を寄せて、私との距離を縮めた。そして小さい子を抱き上げるように脇の下に手を差し入れ、私をひょいと持ち上げると、バスタブの縁に座らせた。
すっぴんも裸もとっくに見られているけれど、バスルームの仄明るい照明の下で、間近で見られるのは抵抗があった。肌を覆い隠すものは何もなく、私は両手を交差して胸を隠した。

「恥ずかしいです」

口にしたらますます恥ずかしくなって、私は顔を背けて体を縮こませた。

「……あんまり、見ないでください」
「どうして」
「自分の胸、好きじゃないんです。そんなに大きくないから」
「大きい方がいいなんて誰が決めたんだよ。大事なのは、感度だ」

彼は手首を掴んで私の手を退けると、乳房の下の方をつうと撫でた。肩がぴくりと揺れて、ふ、と吐息が漏れる。そんな風に優しく触れられたせいか、じっと見つめる彼の視線のせいか、胸の先端は徐々に上の方を向いて主張を始めた。

「触ってほしくて、こんなに尖ってる」

わざと羞恥心を煽るようなことを言ってから、高杉さんは親指の腹で乳首を弾いた。ア、と高い声が出てしまって、その声はやたらと大きくバスルームの天井に反響した。その声があまりに色っぽいことに、私は自分でも驚いていた。

恥ずかしさを紛らわせたくて、どさくさに紛れて彼の首に腕を回して抱きついた。するとすぐさま手のひらが背中に回り、彼は私の後ろ髪をかき上げてから、耳朶に唇を押し当てて囁いた。

「したかったんだよ」
「えっ?」
「もう一度、お前を抱きたかった。だから誘ったんだ」

髪型を褒めてもらうより、服装を可愛いといってもらうより、抱きたかったというその一言だけで、身震いするほどの歓喜が胸を突き上げた。
求められているだけで、愛されている訳ではない。そうだと分かっていても、必要とされることで自分の存在を肯定されたようで、私は十分に満足していた。心を求めることも体を求めることも、同列に大事なことなのに、どちらかひとつを求められなくなったら、それはとても悲しいことだと、私自身よく知っているからかもしれない。



(Bに続く)
次の章へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ