隣人と二度、恋をする

□chapter2.Where do my bluebird fly@
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チン!と元気な音がして、トースターからパンが跳ね上がった。ホームベーカリーで作った自家製パンを焼くと、外側はこんがり焼けてきつね色、内側はしっとりフワフワ、まるで綿を詰め込んだように柔らかだ。

熱くて角も持てないくらいのパンに、銀時はバターをたっぷり溶かして、さらにその上から餡子をどっさり塗りたくった。大きな口を開けて頬張り、んんー!と幸せそうに目を瞑っている。一見、巨大な味噌田楽のようで、まるでゲテモノを食べているようにしか見えない。

「ねえ、それおいしいの?」
「うまいよ。お前も食べる?」
「……いらない」

私は即答して味噌田楽から目を背け、いちごジャムに手を伸ばした。私も甘いものは好きだけれど、銀時は私以上の甘党で餡子やパフェといった類に目がなく、朝から特製小倉トーストを自作するくらいだった。


我が家に最新のホームベーカリーがやってきたのは、数週間前のことだった。出来立てのパンが食べたいという銀時と私の意見の一致で、お金を出しあって購入した。新しい家電というのはやたら使いたくて仕方なくて、このところ三日に一回は稼働しており、朝食はいつもパンを食べていた。
そして、カレーの時にはコレ、サラダの時にはコレというお皿の決まりがあるように、トーストの時には、つがいの青い鳥が描かれたペアのお皿を使うのが習慣になっていた。私が大学に合格して上京した時、田舎の実家から貰ってきたノリタケのお皿だった。

同じ柄のペアのお皿に、銀時は餡子たっぷりのトースト、私はいちごジャムのトーストをのせて齧る。いつもの、平穏な朝。

「あのさァ、相談があんだけど」

口許に餡子の粒をつけながら、銀時が言った。

「今週末、前橋に行ってもいいか?泊まりで」
「前橋って、群馬だよね。いいけど、どうして泊まりなの?」
「部活の地区大会の引率。今年は三年の担任だから、部活の顧問は断ったんだけどよ……」

彼の話によると、男子卓球部の顧問をしている先生が体調を崩してしまって、引率に行けないらしいのだ。

「痔で入院したって聞いた時は爆笑したけど、大会は顧問の引率がないと行けねェんだってさ。クラスに卓球部の主将やってる奴がいて、代わりに来てほしいって頼まれたんだよ」
「いいよ、行ってきなよ。担任クラスの生徒さんが出るなら、応援しなきゃね」
「おう。週末一人にさせちまって悪いな。お土産買ってくっからよ」

これまで、研修や出張で数日帰らないことはあっても、銀時がいない週末というのは、同棲してから初めてだった。
ひとりきりの週末を淋しいと思う一方、私は心の何処かでほっとしていた。同じベッドで寝ていて、私達の間には何も起こらないのだけれど、彼が不在なら何もないことが当たり前になる。悶々としたセックスレスの悩みから、ほんの一晩だけでもいいから解放されたかった。



***



そして迎えた土曜日の朝、銀時は午前中に試合があるというので、早朝に出発した。寝ぼけ眼で見送りに出た私に、女一人きりにさせるのを心配してか、彼はこれでもかというくらい念を押した。

「火の元に気をつけろよ。あと、戸締まりはちゃんとしろよ。何かあったらすぐ連絡寄越せよ。あと、窓の鍵開けっ放しにすんなよ」
「大丈夫よ。遅れちゃうから、もう行って」

小学生を一人残して出かける親のように、彼は戸締りの注意を再三繰り返してから出かけて行った。

私はもう一度ベッドに戻り眠ったあと、のそのそと起きてカーテンを開けた。水色の、気持ちのいい青空が広がっていた。絶好の洗濯日和だった。冷凍したパンを焼いて食べてから、べッドのシーツやカバーをはがして一気に洗濯機に放り込んだ。

ごうんごうんと洗濯機を回している間に食器を洗っていると、キッチンの汚れが目についた。せっかくだから綺麗にしてやろうと思い立ち、ゴム手袋をして、シンクや換気扇の掃除をした。くすみが取れていくのを見るのが小さな充実感に変わってゆく。銀時が帰ってきたら、きれいなキッチンにきっと喜んでくれるだろう。そう考えてしまうあたり、私はやっぱり彼のことが好きなんだと思う。

掃除が終わる頃に、ちょうど脱水完了を告げるアラームが鳴った。カゴいっぱいの洗濯物を抱えてベランダに出ると、外は生暖かい風が吹いていて、半袖でもいいくらいの陽気だった。
南東向きのベランダは、午前中に洗濯物を干しておくと気持ちのいいくらいにパリッと乾く。陽射しが当たるようにと洗ったシーツを広げ、彼の仕事用のシャツの、皺を伸ばして洗濯ハンガーにかけた。きっちりアイロンをかけてクローゼットにしまっておいたら、きっと銀時はありがとう、と笑顔で言ってくれる筈だ。レスであることを除いたら、私は彼のことも、彼との暮らしも、ベランダに降り注ぐお日様の光さえもを愛している。

「やっぱり、一緒にいる方がいいなあ」

そんな独り言を言いながら、手摺に身を乗り出して布団カバーを干した時だった。突然、真横から声がした。

「よォ」
「っ!!」

びくりと肩が震えて、心臓が飛び出てくるかと思った。
どぎまぎしながら声のした方を見ると、お隣のベランダの手摺に肘を乗せて、501号室の彼が煙草を吸っていた。

ベランダには仕切りがあって隣は見えないのだが、手摺からちょっと身を乗り出せば、お隣の窓まで見えてしまう。仕切りには“非常時にはここを破って隣戸に避難できます”と書かれている。今、この瞬間私にとって非常時だ。こんな風にベランダで、お隣さんと顔を合わせるなんて思ってもみなかった。

彼は清潔感のある白いTシャツを来ていて、白さが日光によく映えて眩しかった。彼は陽射しに目を細め、煙草の煙をふうと吐いてから、私の方を見て言った。

「お前、男と住んでるんだろ。今日はいねェのか」

おそらく、さっきの独り言を聞かれていたのだろう。私は洗濯物を干しながら、敢えて素っ気なく答えた。

「この週末は留守にしてるんです」
「ふうん」

彼は興味のなさそうにそんな返事をしてから、

「じゃあ、こっちに来るか?退屈だろ」

と、言った。一瞬、何を言われたのか分からなかった。私は洗濯物を手にしたまま、ぽかんと立ち尽くした。
彼の言った言葉を頭の中で何度か反芻してから、ゆっくりと、首を横に振った。

「……彼が居ないからって、一人暮らしの男の人のうちに上がり込むなんてこと、普通はしません」
「まァ、そうだろうな」

彼は低い声で笑いながら、煙草をくわえて煙を深く吸い込んだ。喉仏が微かに動く様子をちらりと見てから、私は残りの洗濯物に手を伸ばした。

一人暮らしの、と言ったことに否定しなかったのは、彼も今日はひとりで過ごすのだろう。以前会ったのが夜の暗がりだったせいか、明るい陽射しの下で見る彼の姿は新鮮だった。色素の薄い肌をしていて、痩身だと思っていたけれど、薄手のシャツから覗く腕や首周りは、しっかりとした男の人のものだった。

煙草を持つ指先は、しなやかで細い。あの指先を思い浮かべて、私は自分の恥ずかしいところを触ったのだ。そして、よく響く声を―――今、まさに隣のベランダから投げかけられる低い声を、何度も何度も思い返していた。

やましいことがあるせいか、洗濯ものを干しながら、背中にじわじわと嫌な汗が滲んできた。会ってしまったのはしょうがないし、化粧をしてないすっぴんの顔を見られるのは、まだいい。でも、休みの日の癖で、ブラジャーをつけていないことを思い出してからは気が気じゃなかった。

隣のベランダから、絶えずじろじろとした視線を感じた。見ないで、とも言えなくて、私は洗濯物を、一分一秒でも早く干し終わる方法を考えていた。

「……じゃあ、これで」

やっと終わり、私は洗濯カゴで胸元を隠すようにしながら、急いで部屋に戻ろうとした。けれど、

「気が向いたら、来いよ」

と、彼が呼び止めた。
彼は短くなった煙草をくわえたまま、手摺に身を預け、品定めをするように私を見ていた。

「今夜、暗くなって……一人でいるのが心細くなったら」

カギは開けとくよ、と彼は言い残して、私より先に部屋に戻った。

「い、行きません!」

そう言ってみたものの、私の声は、ガララ、と窓が閉まる音にかき消されてしまった。暖かい風にはためく洗濯物に包まれて、私はベランダで茫然としていた。

来いよ、だなんて、どんな意図で彼は言ったのだろう。隣のベランダからナンパされて、それに乗っかる馬鹿な女がどこにいるというのか。冷静な私は、彼の言葉を無かったことにしようと、胸の焦りを鎮めようと必死になっていた。
一方で、彼の誘いは、甘い、とびきりに甘い悪魔の囁きのようで、耳から離れてはくれなかった。




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