隣人と二度、恋をする

□chapter2.Where do my bluebird flyB
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翌朝の目覚めは、普段と大きく違っていた。憑き物が落ちたように体が軽くて、気分も爽快だった。カーテンを開けると澄んだ青空が広がっていて、それは私の気持ちそのものを表しているようだった。
目を閉じて、昨晩の出来事を順繰りに思い返す。恋人以外の、名前も知らない男の人と寝たことの罪悪感よりも、胸のつかえが取れたような清々しさが勝っていた。きっと私は、ずっとセックスがしたかったのだ。

朝食にパンを食べようと思って冷凍庫を開けると、ストックが一枚しかなかった。せっかく時間があることだしと思い立ち、ホームベーカリーでレーズンとクルミのパンを作ることにした。材料を間違わないように計量したり、クルミを刻んで炒めたり、普段は面倒だと思うひと手間も、気分が晴れやかだと楽しい作業に変わる。スイッチを入れて焼きあがるのを待つ間に朝食を済ませ、家事を終えて買い物にでかけた。

帰宅した頃に焼きあがったパンは、見るからに美味しそうだった。ずっしり詰まったクルミの匂いや、真綿をつめたみたいにふわふわの感触を、独り占めしておくには勿体なくて、誰かと分かち合いたくなる。そこでふと、隣人の顔が浮かんだ。

(……あの人、料理しそうにないし。一人じゃあ、食べきれないし)

そんなことを考えながら、一斤をなるべく綺麗に六枚切りにした。パンを届けるのにタッパーに入れるのは味気なくて、いつも使っている青い鳥のお皿に三切れのせて、乾燥しないようにラップをかけた。

もし要らないと言われたら、持ち帰って冷凍庫に保存しておけばいいだけだ。私は鏡の前で軽く髪の毛を直してから、お隣の501号室のインターホンを押した。
けれど暫くは、何の音もしなかった。日曜だから出かけているのだろうか、そう思って引き返そうとした時、ガチャ、と重たい音がして扉が開いた。

「あっ、こんにちは!突然ごめんなさい」

私は扉の隙間を覗き込んで、言った。現れた隣人は黒縁の眼鏡をかけていて、眠いのか機嫌が悪いのか、やけに険しい眼差しで私を睨んでいた。

「あの、パン焼いたんです。ひとりじゃ食べきれないから、もし、良かったら……」

言いながら、来る時間を間違えたのかと不安になってしまった。ついさっき時計を見たら、確か昼の12時だった。いくら朝寝坊と言っても、普通の大人なら活動を始めている時間のはずだ。

彼はお皿のパンと私を交互に見つめて―――睨みつけて、と言った方が正しいけれど、乱暴な手つきでお皿を受け取った。そして、

「一回寝ただけで押しかけ女房気取りか。案外世話好きなんだな」

明らかに好意的ではない言い方で、突き放すように言った。それは、いい迷惑だというのを、遠回しに伝えているようだった。

彼の右手はドアノブを、左手はお皿を掴んでいたのに、ドンと強く胸を突かれたような思いがした。私はくるりを体を反転させると、急いで自分の部屋へ駆け戻った。ドアを閉めて鍵をかけて、ふう、と息をつく。心臓がドッドッと変な音を立てており、背中にじっとり汗をかいていた。

「ああ……余計なこと、しちゃった」

思わず、そう口に出していた。
ほんの思いつきで、パンを届けるなんて馬鹿なことをしたのが悪かったのだ。昨晩一度きり、お互いの気まぐれで寝て終わりだったはずで、そんな気遣いは最初からなくてよかった。彼の台詞がずっと耳の中に残っていて、時間をほんの数分前に巻き戻して、やり直したかった。
嫌なことがあった時、気持ちを切り替えて他のことをすればいいのに、私はそれができない。どうしてもそのことばっかり考えてしまって、ああすればよかったという後悔と、自分への嫌悪感に苛まれる。


何の音もしない、静かな部屋で膝を抱えて、銀時とのラインを開いた。日曜の夕方に戻ると、彼はそう言って部活の大会の引率に出掛けた。
恋人以外の男と関係を持ったというのに、一人の時間を持て余す時には、やっぱり銀時が恋しくなる。自分勝手で嫌な女だと思うとますます気持ちは沈み、彼の帰りを待つこと以外、何もする気になれなかった。

“試合お疲れさま!”

笑顔の気分でもないのに、笑顔のスタンプとともにメッセージを送る。

“何時に帰ってくるの?ごはんどうする?”

けれど、待っても待っても、夕方になってもメッセージは既読にならなかった。私は早い時間にひとり分の食事を作り、ひとりでぼそぼそと食べた。そして片付けと洗い物をしていた時、ポーンと音がして、インターホンが鳴った。



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