隣人と二度、恋をする

□chapter6.The Summer Triangle
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母に聞いた話では、おばあちゃんは自宅の階段を降りる時に脚を踏み外して大腿骨を骨折し、助けようとしたおじさんは、おばあちゃんを抱えようとした時に腰をやってしまい、ギックリ腰になったらしい。手塩にかけたブドウの収穫を目前にして、床につく身となった二人の心中を思いやれば、きっと悔しい思いをしていることだろう。
おじさんは自宅療養中だが、おばあちゃんは自宅から一番近い総合病院に入院していた。私はおばあちゃんのお見舞いに行こうと、納屋の隅にあった自転車を出してきた。あちこちが錆び付いて塗装が剥がれた、ボロボロの自転車だけれど、ブレーキは一応効いたし、空気を詰めれば何とか走れそうだった。

家を出発して、田んぼに囲まれた細い県道を暫く走ると、緩い傾斜の上り坂が続いていた。病院は小高い丘の上にあるのだ。座って自転車のペダルを漕ぐうちに、早くも運動不足の太腿が悲鳴をあげ始めた。自転車から降りて坂を上る気にはなれなくて、サドルからお尻をあげて立ち漕ぎをした。ペダルをぐん、と強く踏む感覚が懐かしかった。子どもの頃はよく立って自転車をこいでいたけれど、いつからしなくなったんだろう。

いち、に、いち、に、と心の中で声をかけながら、力いっぱいペダルを踏み込む。だんだん脚が重くなって、肩で息をしながら懸命にそれを繰り返した。
ようやく、病院の白い建物が見えてきた。やっとのことで坂を上り終えて後ろを振り返ると、真っ直ぐの一本道と、白いブドウ畑のビニールハウスが眼下に広がっていた。汗をかいた額に当たる風が、冷たくて心地好かった。眺めのいい景色を望みながら深呼吸をすると、自然と笑顔が浮かんできた。


おばあちゃんの病室は、四人部屋の窓側だった。秋山幹子、名札にそう書かれた病室に、そろりと脚を踏み入れた。
昨夏に会ったきりだから、一年振りに顔を見る。ベッドを仕切るカーテンの隙間から、私はひっそりと声をかけた。

「おばあちゃん」
「楓かい?よく来たねえ!」

張りのある元気な声がした。おばあちゃんは白髪の混じった髪を後ろで一本に結んで、ベッドの上で本を読んでいた。そして私の顔を見るなり、おや、と首を傾げた。

「楓、元気がないねえ。嫌なことでもあったのかい」
「ううん、そんなことないよ。自転車で来てから、疲れちゃっただけ」

生まれた頃から私を知っているおばあちゃんには、気分が晴れないことくらい、すぐに見抜かれてしまうらしい。
何でもない振りをしながらベッドの側の丸椅子に腰かけると、窓際の花瓶に、鮮やかなヒマワリが生けてあるのが目に飛び込んできた。夏を象徴するような、大輪のヒマワリの花だった。

「きれいだね。誰かのお見舞い?」
「ああ、平次君がお庭からとってきてくれたのよ」
「平次クン?」
「あんたも知ってるでしょ、お隣の小銭形さんとこの平次君よ。庭のヒマワリが咲いたからって……昨日だったかしら、持ってきてくれたのよ」
「平次おじさんが?でも、昨日も畑の手伝いに来てくれてたよ?」
「昼間の仕事が終わってから、いつもちょっと顔を出してくれるの。昔からまめな子なのよ」

そして、おばあちゃんは私の腕を軽く叩きながら、目尻に皺をつくって言った。

「そんなことより、梢から聞いたよ!」

梢というのは、母の名だ。

「若い男の子がふたり、手伝いに来てくれてるんだってね!あたしは何もできないけど、お礼だけはちゃんと伝えといてね」

それから口許に手を当てて、ウフフフ、と笑いながら、

「それで、あんたの彼氏も来てるんでしょ?どんな人なの?いつ結婚するんだい?」

七十を過ぎたおばあちゃんの口から、“彼氏”という単語が出てくるのが何だか恥ずかしくて、私は意味もなく赤くなりながら答えた。

「優しい人だよ。結婚は……どうだろう。今は、分からないかな」
「何さ!いい人がいるなら、さっさと結婚しなよ。あたしも梢も、二十歳そこそこで子ども産んでるんだから。あたしが元気なうちに、あんたの花嫁姿を見せてちょうだい」
「うーん。それはまだ、先の話だと思うよ」
「そんなこと言わないでさ。今はほら、着物じゃなくて、ウェディングドレスっていうの?ああいうのは、若いうちに着たほうが似合うんだよ」
「そうだねえ。いつかは、着てみたいと思うけど」

曖昧にかわす私とは対照に、おばあちゃんは切実に結婚を望んでいるように見えた。花嫁姿、それは女の子が人生で一番輝いてる瞬間でもある。孫に幸せになってもらいたいと、おばあちゃんの願いがあるのだろう。
けれど、山梨に来てからの嵐のような二日間を思えば、私には幸せどころか、この先の人生でとんでもない罰が待っているような気がする。なぜなら、貴重な夏休みを潰して農作業の手伝いに来てくれる、そんな優しい恋人に、酷い裏切りをしてしまったのだから。

「おばあちゃん。……私、幸せになれるかな」
「なれるともさ!あんたはあたしの、たった一人の可愛い孫娘なんだから、いい人を見つけて、幸せにしてもらわなくちゃ困るよ」

おばあちゃんは皺くちゃの手で、私の手をぎゅっと握り締めた。日焼けして、指の皮が厚いその手は、働き者の手をしている。
十代でブドウ農家に嫁いだおばあちゃんは、跡取りの男の子を生むことを期待されていたけれど、授かったのは母一人だった。その母が、農家を継がずに町へ出て行った時も、引き止めることはしなかったらしい。子どもの進みたい道を歩ませる、それが親にとって一番の幸せなのだと、昔聞いたことがある。

こんな、ふらふらとしている私でも、おばあちゃんは背中を押してくれるだろうか。そんなことを思いながら、皺だらけの手を見つめていると、

「もしかして、彼氏とうまくいってないのかい」

と、静かな声が聞こえた。

「あんたはお人好しだから……。無理をしてでも相手に合わせるんだろうけど、それじゃあ疲れちまって、長続きしないよ。男と女は違う生きものだから、根っから分かり合うなんてできないけど、せめて、何でも言い合える男(ひと)と一緒にいるんだよ」
「うん……そうだね。そうする」

日焼けした褐色の頬と比べると、おばあちゃんの白目の白さが際立って、とても澄んだ目をしていた。その目でじっと優しく見つめられると、弱音を全部吐き出して、大声で泣きたい気持ちになった。
おじいちゃんが亡くなるまでの何十年もの間、夫婦として連れ添って、ぶつかったり喧嘩をしたり、数えきれない山や谷があったのだろう。それだけに、おばあちゃんの言葉は重みがあった。何でも言えるというのは、簡単なようで、実は容易ではないことだから。


早く退院してね、と繰り返し念を押してから、私はおばあちゃんと別れて病室を後にした。駐輪所にとめた自転車に跨がった瞬間、ふと、ブドウ畑じゃなく、何処か別の場所に行ってしまいたい、そんな衝動に駆られた。
恋人と、隣人と、山梨に来たときはそんな関係だったのが、今はもうぐちゃぐちゃになっている。私自身が招いたことだと思えば思うほど、彼らがいる所には、戻りたくなかった。



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