隣人と二度、恋をする

□chapter4.Classic, Secret, LoveA
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バアさんの入院という事件が起きた週末は、普段の三倍速の早さであっという間に過ぎた。俺も楓も疲れてしまって、ろくに会話もしないまま、休日らしいことは何も出来ずに終わってしまった。
いくら体がダルくて休みたくても、月曜が来れば仕事に行かなくてはいけない。社会人になって一番辛いと思うのは、学生時代と違って、行きたくないから休むということが出来ないことだ。俺は職員会議に間に合うように急いで仕度をし、原付で職場に向かった。

朝のホームルームを終えてすぐ、一限目は一年生の古典の授業だった。思い返せば採用面接の時、古文を学ぶことの楽しさを伝えていきたいとか、そんなことを言った記憶がある。けれどいざ生徒たちを相手にしてみると、『ヤバい』とか『ウザい』とか、そんな言葉だけで会話が成立する高校生に対して、古典の面白さを伝えるのは容易ではなく、どれだけの熱意をもってしても難しいと知った。月曜一限の古典なんて、生徒達にはせいぜい、日曜日の延長程度にしか思われていないのだ。

「じゃあ始めるぞー。さっさと席につけー」

スマホをいじったり、ぺちゃくちゃと喋ったりする生徒たちがぞろぞろと動き回りながら席につき―――この、着席する時間で教師の評価が分かる。新米教師は端から舐められているから全然席に着かないけれど、おっかない学年主任の数学教師だったりすると、全員が一瞬にして席につく。俺の場合は、両者の中間くらいだ。

「今日から新しい単元に入るぞ。予習してきたよなーお前ら。今日はちょいちょい当ててくからな」

今日の単元は伊勢物語の『筒井筒』、文章が簡潔で比較的読みやすい、古典の入門的な歌物語だ。生徒たちに教科書を開かせ、声を合わせて音読をした。

『むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、大人になりにければ、をとこも女も恥ぢかはしてありけれど、をとこはこの女を得めと思ふ…… 』

筒井筒は、幼馴染の男女の恋からストーリーが始まる。幼馴染、というと、バアさんの見舞いに来た前組長の色黒ジジイのことが頭に浮かんで、ふと口許が緩んだ。口外するなとバアさんに釘を刺されたけれど、この大事件を誰にも発表できないのが勿体なかった。

俺は押さえておきたい文法や古語を説明しながら、次の段落に出てくる男女の和歌のやり取りを板書した。

“筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに” 
“くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき”

歌物語を学ぶのだから、歌に込められた心情を想像する方が、よっぽど古典の面白さが伝わると思う。俺は前の方に座っている男子生徒二人を指名した。

「じゃあ佐藤。高橋。前に出て品詞分解と現代語訳、黒板に書いて」
「げえっ」
「げえっ、じゃねーだろ。ちゃんと予習してきた奴は分かると思うが、これはレンアイの歌のやりとりだ。もし男子と女子にあてちまったら、公開告白みたいになってセクハラになるだろ。野郎二人を選んだ俺の気遣いを尊べ」

けれど奴らは、予習どころか品詞分解もまともに出来なかったので、結局古語辞典をひかせながら俺が板書するはめになった。

「“妹”は、兄弟の妹の意味じゃねェぞ。親しい女性に使う言葉だ。そうすると歌の意味は、“幼い頃、井戸枠と背比べをしていた私の背丈も井戸を越したようです。あなたと会わないでいるうちに”となる」

女が返した歌では、色の違うチョークで、「か」と「べし」を繋ぎながら、

「“たれか”の『か』が反語の係助詞で、『べき』はその結びになっているから、係り結びの法則によるものだ」

と、その次に“あぐ”に横線をひいた。

「“あぐ”っつうのは、髪上げのことで、いわゆる女子の成人式みたいなもんだ。“あなたと長さを比べてきた振分髪も今や肩を過ぎました。あなたのためでなく、誰のために髪上げの式を行いましょうか”……そんな意味だな」
「あの、先生」

前の席で古語辞典をひいていた生徒が、手を挙げて質問した。

「どうして、あなたのために成人式をしよう、なんて歌を詠むんですか?なんかちょっと、変な感じがしますけど」
「いい質問だ。成人式ってのは、結婚の適齢期にはいったことをほのめかしてるんだよ。垂れた髪を上げて成人式をするのは、晴れてあなたと結婚するためだ、という意思表示だな。それに男女の間で髪をかき上げるっつうのは、色っぽい意味もある。“君ならずして たれかあぐべき”、これは、“この長く伸びた私の髪を、あなた以外のどの男性がかき上げてくれるだろうか、いや、あなた以外にはいない”という解釈もできる。お前らも高校生だからいちいち説明はしないが、男女がふたりきりで、男が女の髪の毛をかき上げるシチュエーションはどんな意図なのか、だいたい想像つくよな」

性的な行為の最中、その後の愛撫を指して言ったつもりだったが、生徒らにはちゃんと伝わったようだ。純朴そうな女子は頬を赤くして俯き、にやつく野郎の顔が教室に点在していた。

「男の歌は、もう幼い子どもではなく、あなたを妻として迎えられる一人前の男になったという意思の表れだ。女はそれに、成人して女になるのはあなたのためだと返歌した。お互いに一途な愛情を持っているのが分かるな」

幼い頃に一緒に遊んでいた男女が、年頃になるとお互い意識して気恥ずかしくなる。そんな設定は、今時のジャンプ漫画でもたまに見かける。そしてお互いの思いが通じて結ばれるのも、昔も今も変わらない、王道の結末だ。

「じゃー続き行くぞ。“……など、いひいひて、つひに本意のごとくあひにけり”。ここは“あふ”の意味を調べねェと訳せないぞ。田中、現代語訳はどうなる」
「はい。『互いに歌のやりとりをして、とうとう、かねてからの望みどおり結婚した』です」
「そうだ」

百点満点の答えに頷きながら、男女が交わした歌の間に相互に矢印をひき、『本意のごとくあひにけり』と板書した。

「お互いに共通の思いを伝え合う歌で、この男女の清純な恋はめでたく結婚っつう結末を迎えた訳だ。ここまでのところで、何か質問は」
「はーい。坂田先生〜」

後ろの方に座っていた女子生徒が手を挙げた。

「先生が“あひにける”のはいつですかー?」
「今の古語の使い方はまあまあだな。じゃ、次の段落に行くぞー」
「えー!?」

教室に笑い声が湧き上がる。日曜日の延長程度にしか思われていない古典の授業も、後半にさしかかる頃には生徒たちの頭が切り替わっていた。
古典の授業だから、品詞分解とか助動詞とか面倒くさい古典文法を教えなくちゃいけないけれど、文法を知らなくとも古典に親しむことはできる。例えば時代背景とか、登場人物の心理や歌に秘めた思いを考える方が、ずっと物語の世界に入っていける。異性を思う気持ちは、千年前の男女も今時の高校生も、おんなじだから。



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