隣人と二度、恋をする

□chapter7.Not us, but you&me
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山梨から東京まで、銀時と私は高速バスに乗って二時間かけて帰ってきた。新宿のバスターミナルに着いてまず、東京の空の面積が狭いことに驚いた。視界の隅まで聳え立つ、途方もない数の高層ビルが空を覆い隠し、上空は都会特有の埃っぽい空気に覆われて、うっすら霞んで見えた。
街に降りると、車と電車の行き交う音が騒音となって、ひっきりなしに耳に流れ込んできた。道を歩けば、行き交う人々の話し声や道なりに立ち並ぶ派手な看板から、途切れることなく言葉が溢れ続けている。情報が常に過飽和の状態で、町全体を凄まじい濃度で埋め尽くしているのだ。高杉さんが、田舎の静けさの中でなら自由に文章を書けると言っていた理由が、ようやっと分かったような気がした。


電車に乗ってマンションに帰宅すると、五日間家主の不在だった部屋は、濃密な生活臭を充満させて私達を待っていた。

「うわ。暑ィな」

銀時は玄関に入るなり顔をしかめて、真っ直ぐリビングに向かった。

「すげェ空気が籠ってる。クーラーつけるか。あ、でも換気が先だな」

彼は家中の扉を全部開けて、カーテンと窓ガラスを全開にして外の空気を取り込んだ。締め切られた部屋に生温い風が入り込んできて、家主のいなかった部屋に少しずつ元の表情が戻り始める。私は荷物を手に提げたまま、てきぱきと動き回る銀時を目で追いながら、形容しがたい違和感を抑えきれずにいた。

ここは、銀時と私の住まいだ。お気に入りの雑貨があって、使い慣れた家具があって、居心地のいい生活を築いてきた私達の部屋は、五日ぶりに帰ってきても、その様子に何ら変わりはない。
いや、むしろ変わったのは私達の方なのだ。高杉さんと私の関係は露呈し、銀時の過去があきらかになり、私達は今までと同じではいられないのだと、痛いほど知らされた。……それにも関わらず、だ。

「バスって疲れるよな。今日はもう動きたくねェや。晩飯は近くに食いに行こうぜ」
「そうね。出かける前に冷蔵庫、カラにしちゃったものね」
「五日間野菜ばっかりだったから、肉が食いてえな」

銀時は同意を求めるように私を見てから、

「駅前に出来た焼き肉屋、お前行ってみたいって言ってたよな。農作業の打ち上げに行ってみようぜ」

と、屈託のない表情で笑った。

何より違和感があるのは、これだった。彼が私達の変化をまるで“無かったこと”のように、今まで通り振る舞っているのだ。
彼の優しさと寛大さに、ちくちくと胸が傷んだ。夏の夕暮れ、褪せた陽射しが射し込むこの部屋は、無言で私を締め付けてくるようで、ただ呼吸をするだけでも息苦しかった。



***



眠りについてからあっという間に朝が訪れ、翌朝の目覚めは地獄のようだった。全身が筋肉痛に悲鳴をあげて、それでも仕事に行かなくてはならないので、鞭を打つような思いで仕度をして出勤した。
区役所までのバスはぎゅうぎゅうの満員だったけれど、途中の停留所で停車した時に、運よく目の前の席があいた。鞄を荷台に上げて座った途端、ハアアと長い溜め息が出た。五日間の慣れない農作業で体は疲弊して、気持ちはそれ以上に疲れ切っていた。

高杉さんは彼の車で、山梨から東京に戻ってくる筈なのだが、出掛けに駐車場を覗いた時、彼の紺色の車は無かった。どこで寄り道をしているのか、いずれはマンションの隣の部屋に彼が戻ってくるのだと思うと、そわそわとして落ち着かなかった。
男女の関係で、燃え上がるようなという表現を選ぶ場面があるとしたら、それは真夜中の高杉さんとのセックスだった。凄絶な快感に牽き殺されるかと思うほど、夢中になって彼を求め、彼は私を求めた。あんなに情熱的で、淫らなセックスがあるなんて、おそらく彼に出会わなければ知らなかっただろう。彼との時間は刺激に満ち溢れて、逢瀬を重ねる度、新しい扉が開いて体が目覚めていく。狂気じみた眼差しや、耳許で囁やかれた低い声を思い出すだけで、下腹の奥がひとりでに疼いた。

(……やだ。朝から何てこと考えてるの)

私はハッと我に返って、お腹からせり上がって来る火照りを慌てて押し返した。

頭の中でどんな想像を繰り広げても、周りの人には絶対バレない筈なのに、真夜中のセックスを思い返して淫りがましい気分になるなんて、とてもいけない事をしているようだった。私は窓の外を眺める振りをしながら、周囲の視線から逃れるように、髪の毛で顔半分をわざと隠した。

あれは過ちに次ぐ過ちなのだと、私は自分に言い聞かせた。高杉さんとはもうしないと、彼の前で宣言しておきながら、攻められるままに応じてしまったのだから。それは彼が強引だからか、私の意志が弱いからか、実のところ気持ちが彼に惹き寄せられているからなのか、思い付く理由を挙げれば、全てが当てはまるようにも思える。何であれ、これから銀時と一緒にいる為には、高杉さんとの関係に区切りをつけなければいけない。

その時ふと、山梨の夜、高杉さんが放った一言が頭を過った。

(そう簡単に忘れられるかよ、……か)

そんなことを言われたら、余計に忘れられなくなってしまうのを知っていて、わざと彼は言ったのかもしれない。彼が私の肌の隅々と、お腹の奥に残した感覚は、今でも消えずにしぶとく残っている。私の体は、正直に言えば、今でも彼を欲していた。


頬杖をついてバスの外を見ると、都会の雑多な街並みや通勤に急ぐ人々、車が連なる渋滞気味の道路に、都会の騒音が覆い被さっている。なんて、窮屈なところで生活しているんだろうと思う。山梨で見た夏の大三角は、一定の距離を保って夜空を回り続けているのに、私達三人は都会の一角、マンションの狭い小箱に押し込められて、きっとどこにも進めない。

(あの部屋に帰るのは、苦しい。……あそこではもう、暮らしてたくない)

道路沿いの街路樹の銀杏の木の葉は、秋を待つような柔らかみをもって風にそよいでいた。八月も半ばを過ぎれば、少しずつ、夏は終わりに近付いていく。怒濤のごとく過ぎ去った山梨の夏を思えば、心では銀時と分かり合いたいと思いながら、体は高杉さんを求めていた。こんな不安定な状態で二人の側にいたら、そのうち心と体がバラバラになって、弾け飛んでしまうんじゃないだろうか。


その時、きいっと音をたててバスが停まった。区役所前のバス停に着いたのかと思って前方を見ると、信号が黄色から赤に変わっていた。
ふと、反対側の道路に面したところに、CMでよく見る不動産屋の看板が目に入った。店頭の垂れ幕に踊る「ひとり暮らし応援」のポップを見た途端、私は頬杖をつくのをやめて、バスの車窓に額を押し付けていた。パッと頭に浮かんだアイディアに、溺れかけた命を救われたような思いがした。




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