隣人と二度、恋をする

□chapter4.Classic, Secret, Love
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楓と初めて会ったのは、大学に入学したての春。学費免除の説明会で、楓と志村妙と、同じテーブルに座ったのがきっかけだった。楓は母子家庭で育って、妙は両親を亡くしていて、似た境遇の俺達三人はすぐ仲良くなった。
志村妙は学業と並行してアルバイトをしながら弟を高校に行かせていて、同い年とは思えない程しっかりしていた。そして誰に対しても物怖じせず、言いたいことをきっぱり言う男勝りな性格だった。一方楓はそれと対照的で、控えめで大人しい子だった。いつも何かちょっと我慢しているような健気さと、小柄で色が白くて、護ってやりたくなるような外見の楓を、俺はすぐに好きになった。学生時代から付き合って、社会人になって同棲を始めてから何年にもなるけれど、俺の気持ちはずっと変わらない。彼女はいつだって優しくて、今の暖かな暮らしは彼女がいるからこそ成り立っている。俺はきっと、彼女が死んだら生きていけないと思う。
でも、バアさんが救急車で運ばれたと知った時、きっとバアさんが死んでも生きていけないだろうと思った。親がいない俺にとって、身近な奴に対する依存の度合いは、普通の人とはちょっと違うのかもしれない。


バアさんの入院先の病院から楓を家に帰してから、一階の事務案内で入院の手続きをした。大きい病院に来ると、何をするのでも待ち時間が長くて本当にイライラする。三十分以上待ったけれど手続きは五分もしないで終わり、事務員から渡された茶封筒の中を確かめた。入院の同意書、入院の手引き、必要なものの一覧。タオル、歯ブラシ、コップ、着替え……バアさんの家から持ってくるものを順繰りに呟きながら、俺は最寄りの駅まで歩いた。
駅から京浜東北線に乗ると、十分もしないで東十条の駅に着く。バアさんの家は、東十条と十条のちょうど真ん中あたりにある。駅の近くには下町っぽい商店街があり、その先には住宅地が広がっていて、新宿にも近いけれど都会っぽさを感じさせない場所だ。

バアさんの家は古い平屋の一軒家で、大学生の頃はここから大学に通っていた。門をくぐると、俺の気配を察してか、玄関前の犬小屋から飼い犬が飛び出してきた。

「定春!元気かー」
「キャン!キャンキャン!!」

てっきり腹を空かせていると思ったが、エサ入れに食べた形跡が残っていた。スナックの従業員が近くにアパートを借りており、多分気を回して食事を与えてくれたのだろう。

「お前飯食ったのか?キャサリンがやってくれたのかな」
「ワン!!」

定春はしっぽが千切れるほど振って飛び跳ねていた。俺がこの家に住んでいた時、散歩は俺の仕事だったから、散歩に連れて行ってもらえると思って興奮しているのだ。生憎、俺が楓と暮らすようになってからは、散歩はバアさんが出勤前に、近所を一回りするだけになってしまった。

「悪いな定春、散歩は後だ。バアさんが入院しちまって、これから病院に戻らなくちゃいけねーから。戻ってくっから、それまで待ってろよ」
「クウン……」

耳を垂れ提げて、しょんぼりしている定春を置いて出るのは胸が痛んだが、なるべく早く帰ればいいだけだ。必要な荷物を紙袋に突っ込むと、俺は急いで病院へと戻った。
病院へと往復して、またここへ戻って来るというのはなかなか慌ただしく、楓に来てもらえればよかったという考えが頭をよぎった。彼女を呼ばなかったのは単純な理由で、バアさんの家が立派とは言い難い、古いボロ家だからだ。歌舞伎町のスナックに連れて行くのまだはいいけれど、狭い家に彼女を招き入れるのは抵抗があった。
古いからと言って、楓はきっと何とも言わないし、気にもかけないだろう。けれど男というのは、好きな女の前では見栄っ張りになるものだ。それに何となく、彼女と出逢う前の俺のことは、知られたくないのだ。



***



やけに疲れるなと思ったら、朝から何も食べていなかったことに気付いて、俺は病院の売店で弁当とお茶を買い、バアさんの病室でかっ込んだ。
点滴を繋がれたバアさんは、プラスチックの容器に詰められた冷めた飯に、咎めるような目線をくれて俺に言った。

「アンタ、いつもそんなモンばっか食べてんじゃないだろうね。栄養が偏るよ」
「内臓に穴があいたババアに指摘されたくねーよ」

俺の悪口に普段はピシャンと返すバアさんも、この時ばかりは何も言ってこなかった。不規則な生活と、飲酒喫煙がたたって十二指腸潰瘍なんかになったのだ。これを機に生活習慣を改め、煙草とも縁を切って健康的な生活をしてもらわなくてはいけない。そう、俺のように。

「俺は煙草は吸わねーし、酒も職場の飲み会で飲むくらいだし。飯だって基本は自炊だよ。楓は料理うまいし、俺だってそれなりのモン作れる」

楓の名前を口にしたら、何だか彼女のことが恋しくなった。休みの日は、たまに凝った料理を時間をかけて作ってくれることがある。豚の角煮とかビーフシチューとか、長時間煮込むやつ。うまいのは勿論だけれど、料理の本を見ながら一生懸命に作る姿が可愛くて、一緒にいてよかったと思う瞬間のひとつだ。
彼女のことを考えるうちに、俺はバアさんに訊ねていた。

「……なあ、バアさん」
「何だい」
「楓のこと、どう思う?」
「イイ子だと思うよ。気遣いができて、かと言って出しゃばらないで、優しくて。あの子のことはもう娘同然だと思ってるよ。いつか本当に、そうなってくれるといいんだけどね」
「じゃあさ、楓がいる前で、孫の顔見たいとか言うのやめてくんない?何つーか……プレッシャーになんだろ」
「あたしゃそんなこと、一回も言ってないよ」
「言ったって!」
「いつの話だい」
「春先。新宿の店に行った時……」

俺は頬杖をついて窓の外を見た。いつの間にか雨がぱらついており、まだ日は落ちていない筈なのにやけに薄暗い。梅雨時期の空は日がな一日分厚い雲に覆われていて、じっとりとした湿気を帯びている。
楓はもう、マンションに帰った頃だろうか。雨に降られずに帰っていればいいけれど、と傘を持っていなかった彼女のことを案じた。帰宅したらきっと、洗濯物を片付けて掃除でもして……俺は弁当で済ませてしまったけれど、彼女はちゃんと、飯を食っただろうか。

(何やってんだ、俺)

楓を先に帰しておいたのは自分なのに、彼女のことばかり考えてしまう。もしかしたらバアさんと二人きりでいるのが久しぶりで、居心地が悪いせいかもしれない。新宿の店に行くのだって、ずっと楓と一緒だった。
そう、休みの日は、いつも一緒に過ごしていた。

自分の中に、こんなに自分勝手で女々しい感情があったのかと嫌気がさした。手伝わせて、と彼女は言ってくれたではないか。くだらない見栄を張っていないで、彼女と一緒にいたらよかったのに。

(ま。今更後悔してもしょーがねえけど)

食べ終わった弁当の容器をゴミ入れに投げ捨て、俺は丸椅子から立ち上がった。

「俺、そろそろ帰るよ。定春、散歩に連れて行かねーと……」

その時、ベッドを仕切るカーテンの向こうに、ゆらりと人影が揺れた。看護師かと思ってどうぞ、と言うと、カーテンが静かに開いて、浅黒い肌をした爺さんが顔を覗かせた。



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