隣人と二度、恋をする

□chapter6.The Summer TriangleA
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高杉さんの体のことが心配だった。痩身の体を昼間中酷使して、更に夜中に原稿を仕上げるために働くなんて、そのうち倒れてしまうんじゃないだろうか。

「仕事が溜まってるなら、明日は畑に出ないで原稿を終わらせてください。選果は平次おじさんにしてもらって、私がブドウ畑に行けば済むから……」
「いや、そういう訳じゃねェんだ。こんな自然の多いところまで来て、農作業の手伝いする機会なんて滅多にねェし」

私に気を遣ってか、高杉さんは言葉を選びながら言った。

「要は、考えようだよ。俺みたいに文章を書いて金を貰うには、裏付けのための資料とか取材は、必ず必要になるモンだ。だが何人に当たって取材して、幾つもの資料を買い漁るより、自分で体験した方が確実に実になる。そう考えりゃあ、昼間の野良仕事も無駄じゃねェのさ」

そして彼は、それに、と星空を見上げた。

「マンションの仕事部屋にいるより、こっちの方がよっぽど快適だ。涼しくて、静かで、……でも、耳を澄ませば色んなものの音が聴こえてくる。星の瞬きでさえ、細やかな音を得ているのかと思うよ。手を伸ばしたら、そこら中に言葉が散らばっていて……ここでなら何だって、自由に書ける気がする」

高杉さんの視線の先にある、無数の星々を見る。無限の闇に散らばる白い光の粒は、世の中に溢れる言葉そのもののように、彼に降り注ぐのかもしれない。

私自身区役所の仕事をしていて、書類を見ても新聞を見ても、毎日何千何万という言葉を目にする。けれど書き手の気持ちを考えることはなく、日々大量に溢れる文章から読み取れる情報を、淡々と処理していた。
それこそ現代文の授業で、筆者の意図を答えよという問いでもない限り、文章を解釈しようとはするけれど、込めた思いや労力を推し量ることはない。書き手側にいる人々は、受け身な読者達へ向けて、一体どんな思いで言葉を届けているんだろう。

ままごと、と私達の間柄を揶揄した高杉さんの表現は、的を得ていた。きっと彼の頭の中には、私の知らないフレーズや言葉の使い方が幾つもあって、彼はその中を自由に、悠々と游ぎながら、彼にしか使えない言葉を操るのだ。

「あなたの周りには、当たり前に文字があるのね。空気のように……ううん」

彼のマンション、四方の壁を本棚で囲まれた、本の海のような仕事部屋を思い出して、私は言い直した。

「きっと、活字の海に棲んでいるんだわ。いくら疲れていても、眠くても、活字から離れていられないのよ。海から引き揚げられた魚がいずれ死んでしまうのと同じように、書かずにいられない、書いてあったら、読まずにいられないの。だから、あの本の海の中に沈んで、書き続けているのね」
「書き続けないと、死ぬ……か。確かにそうかもしれねェな。物書きで食う奴らは、いつも文字の海に溺れてるような連中さ。書かないより、書いていた方が楽だ。読まないよりも、読んでいる方が楽だ。そんな生き方をしているから、本が売れなくても、文章で食べていけなくても、文字から離れられねェんだ。俺だってそうだ。文章を書くことを俺から取ったら、きっと何も残りゃあしねェ」
「そんなことないわ」

私は小さく首を振って、夜空を見上げた。無数にきらめく星を、彼なら手を伸ばして掴みとって、何か綺麗な言葉に変えてくれそうな気がした。

「あなたの言葉は、人の心に触れるものだわ。書くこと以外に能がないみたいな、そんな言い方しないで」
「どうして?」
「恨んでるかって、さっき私に聞いたでしょ。私……、あなたのこと恨んでなんかいない。確かに嫌なことも言われたけれど、銀時と私が今のままじゃ駄目だって……ちゃんと向き合わなくちゃいけないんだって気付いたのは、あなたのお陰だもの」

高杉さんの目を見つめながら、だから、と私は言葉を続けた。

「ありがとう、…………なんて私が言ったら、変に聴こえるのかな」

言っている途中から気恥ずかしくなって、私は彼から顔を背けるようにして、意味もなく笑った。
ほんの一時、男女の関係になった相手に「ありがとう」と口にするのは、サヨナラの意味を含んでいる。言った私がそう思うのだから、彼には別れの言葉に聞こえただろう。
でも、それでよかった。いつかは終わりが訪れる関係に、区切りをつけるだけのことだ。彼と過ごした時間は、幻になって消える。憧れが奪われたような、胸に穴が開いたような喪失感も、すぐに忘れるはずだ。


すると高杉さんは、聞き取れないくらいの小さな声で呟いた。

「……ここに来たのは、銀時の阿呆に頼まれたからじゃあねェよ」

彼の目は、星の光を受けて艶かしい輝きを宿していた。とても、綺麗な色だった。

「お前が困ってるって、そう聞いたから来たんだ。お前の為だ…………なんて俺が言ったら、嘘みてェに聞こえるのかな」

私の言葉をなぞるように言って、彼はうっすらと微笑んだ。いつもの皮肉っぽい、意地悪な笑顔と違って、その表情は思春期を知らない少年のように無垢なものに思えた。
お前の為だ、そんな言葉をかけられたら、なんて答えればいいんだろう。それにも私は、“ありがとう”と答えるのだろうか。
夜風が木の葉を揺らす音よりも、涼やかな鈴虫の鳴き声よりも、自分の心臓の音がうるさい。




(Bに続く)
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