隣人と二度、恋をする

□chapter7.Not us, but you&meB
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ナンパ男を撃退した恩人に、何かお礼をしなければと思っていたところに、彼は訊きたいことがあると言って私を引き留めた。彼は道路沿いの、大きな窓のある喫茶店に誘い、お店に入る前に一枚名刺を差し出した。

「こんな時間に若い女性を誘うなど、あまり褒められた行為ではないが、俺は決して怪しいものではない」

彼の名刺には、“日日新聞 社会部記者”という肩書と、桂小太郎という名前が記されてあった。そこで私は初めて、彼の長髪がカツラというのは私の勘違いで、桂という名前の人だと気付いた。

窓辺の向かい合わせの席について、コーヒーを注文してすぐ、彼は口を開いた。

「俺の勘違いでなければだが、先ほど君が銀時と名前を呼んだ男は、高校の同級生だ」
「えっ、そうなんですか?!」
「珍しい銀色の天然パーマで、死んだ魚のような目をして、口は悪いが根っからの性悪ではない。そんな奴だったが、人違いだろうか」
「いいえ。多分、合ってます」

私はクスクスと笑いながら、少し遅れての自己紹介をした。

「私、秋山楓です。銀時とは大学が一緒で、今……一緒に暮らしています」
「同居!?それは、奴と結婚してるっていうことか!?」
「いっ、いえ、そういう訳じゃ……!!」

同棲を止めようとしていることは、ここで明かすような話題ではなかったので、私はさりげなく話を元に戻した。

「世間は狭いって、こういうことを言うんですね。銀時と同じ高校ってことは、高杉さんも一緒だったんですか」
「そうだ。高杉のことも知っているのか」

桂さんは驚きに目を丸くしてから、懐かしそうに目を細めた。

「アイツらとは、特別気が合う訳でも仲がいい訳でもなかったけれど、よく一緒にいたよ。……似た者同士だった」

桂さんは、物心ついた頃にご両親が他界し、おばあさんに育てられたのだそうだ。けれどそのおばあさんも中学校にあがる前に亡くなり、新聞配達のアルバイトをしながら中学校に通い、特待生で入った高校で、銀時と高杉さんと知り合ったそうだ。

「二人はどんな高校生だったんですか?」
「まあ、不良と言ったらいいのか、授業には来ないわ喫煙飲酒の問題は起こすわで、あいつらには苦労させられたよ。俺は学級委員だったから、立場もあって、サボり場所を突き止めて無理矢理教室に連れて行ったりな」

ナンパ男に絡まれるというトラブルから女性を助ける、真っ当な正義感を持っている桂さんは、典型的な優等生タイプだったのだろう。それと対照的に、あとの二人は不真面目でトラブルを起こすタイプで、個性はちぐはぐだけれど、三人が揃って奇妙に均衡がとれていたのかもしれない。

「高杉が学校を辞めた時は、銀時は悪さをする相棒をなくしたせいか抜け殻のようになってしまって、受験を控えてるのに勉強に身が入らなかった。ケツを引っ叩いて受験勉強をさせたよ。なんとか志望校に合格したことまでは知っていたけれど、それから音信不通になってしまった。今、あいつらはどうしてる?」
「銀時は私立高校で、国語の先生をしていますよ。高杉さんは、フリーでライターの仕事をしています」

桂さんは、そうか、と言うと、ほっと音がするような吐息とともに、視線を窓の外へ向けた。お店に面した狭い車道をひっきりなしに車が行き交って、桂さんの整った横顔を、ヘッドライトが次々と照らしていた。その表情は、先程までどことなく険しかった眉が解けて、目許には安堵の色が浮かんでいた。
高校を卒業してから十年、ずっと心のどこかで気にかけていたのだろう。銀時や高杉さんのことを、今でも大切な友人だと思っているのが伝わってきた。

けれど私にしてみれば、銀時に桂さんのような友人がいたとは初耳だった。大学で彼に出逢う前の話だから、知らなくて当たり前なのだが、桂さんが語ったのは、まるで違う人の思い出話を聞いているようだった。

「銀時は……あまり自分のことは、話さない人なんです」

と、私は肩をすくめて微笑んだ。

「一緒に暮らしていて、仕事がどうだったとか、好きな漫画や映画の話はするけれど、子どもの頃の話とか、高校時代どんな風に過ごしていたかとか……私、全然知らなかったです」
「銀時は昔から慎重で、少々臆病なところがある。何か自分のことを喋ったとして、相手にどう思われるのか確信が持てないないうちは、自分から話すことはしないだろう」

セックスレスの原因となった出来事を、私に“嫌われたくなかったから”という理由で、銀時がずっと黙っていたことを思い出した。

「高杉は、無関心なようで執着が強くて、いつの間にか相手を自分のテリトリーに巻き込む強引さがある。組織や規則の中で生きていくタイプじゃないから、フリーランスで仕事をしているのには納得したよ」
「桂さんは、どうして新聞記者に?」
「どうして……か。新聞配達をずっと続けていたから、いつか、一面に踊る記事を書いてみたいと思ったのがきっかけだが」

自分自身のことを語るのは少し照れがあるのか、彼は伏し目がちに言った。

「自分で見聞きした真実を、ありのままの出来事を、世の中に伝えたいと思ったから……だろうか。志望動機なんて、何年も昔に採用面接で恰好つけて喋ったきり、すっかり忘れてしまったよ」
「そうですよね。分かります」

小さな声で笑い合ってから沈黙が訪れ、周囲のお客さんや店員の会話が、急にくっきりと耳に入って来た。それは、気まずい種類の沈黙ではなかった。同じ高校生だった銀時と高杉さん、桂さんの三人が、大人になってそれぞれの仕事を選び、別々の世界で生きているのだということを頭に沁み込ませるような、そんな間だった。

暫くして、桂さんは静かな声で言った。

「俺達は似た境遇の持ち主で、同じ時間を過ごしていたけれど、違う道に進んだ。でも、昔から既に、てんでバラバラの方向を見て生きていたのだと……そう気付いたのは大人になってからだよ」

言い終わってから、桂さんはひとりで低く笑っていた。今の話で、何も可笑しな話題なんてなかったので、私は怪訝に思って訊ねた。

「どうしたんですか?」
「……いや」

桂さんは笑いの余韻を残した声で、ゆっくりと首を横に振った。

「もう、とっくの昔に離れているのに、昔話をするときは、俺とアイツらは“俺達”の一括りになってしまうと思ったら、急に可笑しくなってな。青春時代の記憶というのは、文字通り青くてほろ苦いよ。葛藤や悩みを蹴飛ばしながら、がむしゃらに転げ回る毎日を送っていたのに、今が永遠に続けばいいと、そう感じていた……」



***



桂さんは私がトイレに立った間にお会計を済ませて、帰り際にもタクシー代を握らせてそうとした。電車で帰るから大丈夫だと主張すると、彼は駅の方を指差して、

「また変な奴に絡まれでもしたら困るだろう。近くまで行こう」

と、新宿駅まで送って行ってくれた。押しつけがましさはないものの、ストレートに親切で紳士的な人だ。銀時とは違ったタイプの優しい人だと思いながら、私は彼が銀時と音信不通だと言っていたことを思い出した。

「せっかくですから、今度、銀時と会ってみたらどうですか。連絡先、教えましょうか」
「いや、いいよ。俺から電話をかけたとしても、すぐに切られそうだ。サボり癖のあるアイツを毎日追い掛け回して勉強させていたから、俺は銀時には嫌われている。近況が知れただけでもよかったよ。ありがとう」
「いいえ。私の方こそ、ありがとうございました」

別れを告げ、踵を返した桂さんの長い髪は、後ろから見ると本当に女性のようにきれいだった。私は失礼かと思いながら、つい呼び止めてしまった。

「あの、桂さん。その長い髪って……地毛ですよね」
「ああ、そうだが」
「どうして伸ばしてるんですか?」
「俺は記者だ。世間の変化を追いかけるのに、己の身なりになど構ってられん」

桂さんは微笑んで片手を挙げて、人並みに消えて行った。不思議な魅力のある、面白い人だった。きっとまた何処かで会えるような予感を抱きながら、私は貰った名刺を大事に手帳に挟んだ。


それからホームへ向かって、新宿駅のコンコースを歩いていた時だった。見覚えのある横顔が視界の隅を横切って、私はハッと歩みを止めて人混みに目を凝らした。
同じ日に、こんな偶然が重なる筈はない。そう思いながらも、私の視線はその姿を捕えていた。濡羽色をした長めの髪と、細身の見慣れた後ろ姿に確信する。高杉さんがいると認識したのと同時に、彼と腕を組んで、若い女の子が隣にいた。茶色の髪をふんわりとカールして、流行りの丈の長いスカートを靡かせて歩く、おしゃれな女の子だった。

(……可愛い子)

新宿駅に偶然高杉さんがいたことに驚いたけれど、女の子と一緒だったことには、全くと言っていいほどショックを感じなかった。あの人は私だけを見ているのではないと、初めから分かっていた。いつだったか、高杉さんは“俺達の秘密”と私に言ったけれど、彼にとって“俺達”と呼びあえる女の子は、私以外にもいるのだから。

マンションから引っ越すことは、私の中では、高杉さんとの関係にも区切りをつけることと同義だった。私はもう“俺達”の片方ではなく、私は私になるのだ。



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