隣人と二度、恋をする

□chapter5.Take me home,Country roadsB
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殴り合いの喧嘩をするほど憎い奴の顔なんて、暫くの間見たくないどころか、棺桶に入る瞬間まで見たくないと思うのが普通の感覚だ。高杉だって、同じように思ったに違いない。てっきり俺は、高杉はブドウ畑を去ってから、自分の車を走らせて東京に帰るのだと思っていた。俺とて自分の彼女を寝取った奴と仲良くブドウ狩りなんてまっぴら御免だったから、さっさと帰れ、二度と目の前に現れるなとすら思っていた。

でも高杉は、午後にブドウ園に戻ってきた。そして俺とは目を合わせないまま、一切口を開くこともなく、収穫を再開した。その姿を見て、ああ、コイツは帰らないんじゃない、帰れないんだと気付いた。なぜなら、貴重な男手が一人居なくなれば、母ちゃんからブドウ畑を任された楓が困ってしまうからだ。

帰りたい 帰れない さよなら

そんな歌詞が、頭の中でリフレインする。
帰れないのは、俺だって同じだった。俺と楓の関係はもう、今まで通りではいられないのだ。
彼女と高杉が何をきっかけで知り合ったのか、いつから関係を持っていたのか、追及したいことはきりがなかった。俺にとっては、彼女が隣人の幼馴染と浮気したという事実もさることながら、山梨まで一緒に来て、同じ屋根の下で眠ったというのに、今の今まで二人に隠し事をされていたショックが大きかった。

高杉はともかく、楓は平気で人を裏切る真似ができないタイプなのに、一体何がそうさせたんだろう。もし、高杉に無理矢理押し倒されたのだとしたら、俺は本当に野郎を殺しに行かなくてはいけない。それだけはどうしても、楓に確かめなくてはならなかった。


お通夜みたいな無言の晩飯を終えてから、俺と楓が休む二階の寝室では、彼女は小さくなって正座をしていた。両手を腿の上できつく握り合わせたまま、黙って俯いている。彼女は、自分がしたことがどれだけ酷いことか、どんなに人を傷付けるのか、ちゃんとわかっている様子だった。

なァ、と俺は重たい口を開いた。

「訊きてェことがある。……お前が何言っても、怒らねェから、正直に答えろよ」

一語一語を区切るようにゆっくりと喋って、ひとつ呼吸置いてから、俺は細い息を吐くのとともに尋ねた。

「高杉と寝たのか?」

楓は小さく、頷いた。

「お前が、望んで?」

彼女はまた、頷いた。肯定の仕草に、不思議と怒りも悲しみも沸いてこなかった。大方の怒りは高杉にぶつけてしまったし、彼女が野郎に靡いた原因の一部は俺にあると、高杉に教えられたばかりだった。

「それは……俺とヤッてないから?それとも、高杉(アイツ)のことが好きだから?」

楓はじっと俯いたまま、何も言わなかった。一方的に質問を投げ掛けるこの状況は、まるで彼女を虐めているようで、既にズタズタの心が余計に傷んだ。もしかしたら、彼女もこんな気持ちなのだろうか。高杉と殴り合った時、奴は確かこう言った。惚れた男に愛してもらえない、それがどれだけ傷つくことなのか、考えたことがあるのか、と。
セックスで満たせない分、他の面で満たそうとして、それが彼女を愛していることになるのだと、俺はいつからか勝手に決めつけていた。彼女はずっと、愛されない淋しさを飼い続けていたというのに。


「あのさ、楓……」

躊躇い、迷いながら、俺は口を開いた。俺には、今まで一度も彼女に打ち明けていなかったことがある。出来ることなら、一生誰にも明かさずにいたかったことだ。
けれど今、俺達の間に入った亀裂を埋めるためには、彼女に知っておいてほしいことだった。

「本当は、お前に知られたくねェし、話したくねーけど……この際だから、話すよ」

人の記憶というのは便利なもので、幾年かの時を経れば、嫌な思い出は普段取り出せないような奥の方へとしまっておくことが出来る。幾重にも蓋をして、幾つもの錠をかけた記憶の扉を、俺は自らの手で抉じ開けた。

「俺の、生みの母親がさ……、母親なんてこれっぽっちも思っちゃいねーけど、俺の父親が誰かもわかんないような、要はアバズレってやつでさ。ガキの頃は一緒に住んでたんだ。そいつがさ……男を家に連れ込んで、やるんだよ。俺がいる目の前で、平気でセックスすんの」
「……えっ?」
「初めは、何だか分からなくて、虐められて苦しんでるのかと思った。男に覆い被さられて、変な声出してるから。けど……それだけじゃないって気付いた時から、気持ち悪くてしょうがなくなった。見たくないから、隠れるだろ?そうするとさ、面白がって見せようとすんだよ。でも嫌がってると、殴られたりぶたれたりして、無理矢理見させられるんだよ。だから……“そういう”類のことは、痛ましいことなんだよ。俺にとっては……」

大きく見開かれた楓の瞳は、恐ろしいものを目の前にしたように、左右に大きく揺れていた。

「そんなの……虐待だわ」
「そうだよ。それが異常なことだって、子どもなりにわかってた。だから小学校にあがった時、母親と離れて養護施設に入ったんだ」
「……私、今まで知らなかった」
「そりゃあ、そうだよ。言ってねェもん」

わざとおどけた調子で言うと、楓は悲愴な面持ちで首を傾げた。

「じゃあ、昔は無理して……私と……その、セックスしてた、ってこと……?私には、言えなかったの?」
「そういう訳じゃ、ねェけど……」

隠し事、というよりも、人に知られたくな過去というものは誰にでもあるものだ。バアさんにだって言っていないし、どんな親しい人にだって、易々と打ち明けられるような類の話ではなかった。

「大学ン時にお前と会って、好きになって、付き合うことになって……一度は、話そうかと思ったよ。でも、お前に嫌われたくなかったから、止めたんだ。お前が側にいてくれて、頼りにしてもらえるのが、家族が出来たみてェに嬉しかったから」

母子家庭で育った楓は、俺に父性とか家族愛とか、そんな種類の愛情を求めていると思っていた。本来なら両親の愛情を注がれて育つはずが、一人分が欠落していると思うと、それを埋められるくらいに彼女を大事にしようと思っていた。
だって、愛されない辛さは、俺の方がよく知っていたから。

「高校の終わり頃かな……お登勢のバアさんのとこで暮らすようになってから、家族がいたらこんな感じかとは思ってた。でも。バアさんは人を頼るようなタイプじゃねーだろ?お前が側にいて、俺を必要としてくれて、初めて俺自身の居場所が出来た気がしたんだよ。一緒に暮らし始めてから、お前を護ってやらなきゃ、大切にしなきゃって気持ちがますます強くなったよ。お前は俺にとっては、家族なんだ。女としてっつーより……人として、俺の人生で、かけがえのないモンになってるんだ」

俺は楓の白くて細い手を手繰り寄せて、そっと握った。

「恋人同士なら、セックスするのが普通なんだって知ってるよ。俺だって、そうしようと思ってたさ。けど……誰だって、自分の大事なモンを、汚したり痛めつけたりしたくねーだろ?俺がお前としたいと思わねェのは、お前を“そういう対象”にしたくなかったんだよ……」

俺の告白を楓は黙って聞いていた。暫く経ってから、でも、と小さな声がした。

「……でも……私は、あなたのお母さんとは違うし、あなたの家族じゃないわ。あなたが言ったように、私達、恋人同士なのよ。……私だって、女なの」

女、と口にした彼女は、これから戦いにでも行くような、意を決した面持ちをしていた。真っ直ぐに俺を見る彼女の目は、涙に濡れたように光っている。

「したいって、ずっと言いたかった。……でも、いやらしいと思われたらどうしようとか……うまくいかなかったらどうしようとか、そんなことばっかり考えてて、あなたに言い出せなくて……」
「言えなかったから、俺とできないから、高杉とやったのかよ」
「許されることじゃないって分かってるわ。でも、私にとっては……“あの時”には、必要なことだったの。あなたは軽蔑するかもしれないけれど……ずっと、ずっと淋しかった。あなたと一緒にいて、愉しくて居心地がいいけれど、必要とされないのは、求められないのは、つらかった。すごく、つらいの。体がどんどん渇いていくような感覚がするの。一時でもいいから満たして欲しくて、このままじゃあどうにかなりそうと思っていた時に……」

一息に話しきってから、楓は俯いて、奴の名前を口にした。

「高杉さんと、会ったの」

高杉の名前を彼女の口から聴くのは、これが初めてだった。
過ちを悔い、一生懸命自分の気持ちを説明しようとする彼女は健気だった。それに引き換え、俺はどうだろう。古典の授業で筒井筒を扱った時、男女の関係を続ける努力をしていない俺には、恋愛を語る資格はないと思ったけれど、元々恋愛をすること自体に不出来なのだ。セックスをしなくても、楓とは気持ちが通いあってるというのは、ただの過信だった。彼女の淋しさに気付いてやれなかった俺も、人の女に堂々と手を出した高杉も どちらも咎めに値するけれど、板挟みになった楓はどんな気持ちでいるんだろう。


「……楓、悪かったよ」

何に対して謝罪をしたいのかよく分からないまま、俺はそう言って彼女の髪をくしゃくしゃに撫でた。

「お前を、必要としてねェ訳じゃねーよ。何で俺が、十年近くお前といるのかは分かるよな?……お前のことが、好きだからだよ。いきなりポッと現れた高杉なんかに、お前をとられてたまるかよ」

彼女が寝たのが、高杉でない他の誰かだったら、心臓が捩れるような苦痛はなかったかもしれない。俺が、あの野郎から彼女を奪い返す方法があるとしたら、一つしか思い浮かばなかった。

「これから……俺とするなら、アイツのこと、忘れられる?」

楓は、驚きの色を浮かべて俺を見上げた。目が合った時にふと、俺自身の顔が泥人形のように、はちゃめちゃなのを思い出した。高杉に殴られた場所は赤く腫れて、頬や額には青アザが出来て、相当酷い顔をしているはずだ。

俺はヘラッとした笑い顔を作って、彼女に訊ねた。

「それとも、こんな汚ェ面(ツラ)した俺じゃあ、駄目かな」

すると楓は、突然ワッと火がついたように泣きじゃくりながら、激しく首を横に振った。それから小さな声で、しよう、と言ってから、柔らかい乳房を押し付けるようにして、俺に抱きついてきた。



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