隣人と二度、恋をする

□chapter8.Swimming in the sea of words
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活字の海に棲む魚だと、隣人は俺のことをそう言った。
文章に起こす題材を模索して、最適な日本語の表現を捜すために頭を働かせるのは、確かに広大な海を泳ぎ続けるのと似ている。言葉には終わりというものが無く、終着の場所を知らずに書き続けるのも、止まったら死ぬ、生きるために泳ぎ続ける魚そのものだ。彼女の選んだ言葉のセンスは、悪くなかった。
だが、活字の海、そんな言葉がしっくりきたのは、田舎の静まり返った夜、降るような星空の下だったからかもしれない。東京は昼夜問わず多くの情報と言葉がひしめき合っていて、隣人の澄んだ声が生み出した綺麗な言葉も、泡沫のように掻き消されてしまう気がした。



山梨から戻って、二週間ほどが経った日のことだった。俺はコラムを執筆している雑誌の編集者に呼び出されて、新宿駅へと向かった。

「高杉さ〜ん!おつかれさまです!」

新宿駅のコンコースで俺を待ち構えていたのは、編集者お気に入りの、今春採用されたアルバイトの女だった。

「編集長から、高杉さんをお店に案内するよう言われてきました。歌舞伎町の方ですよぉ」

店名と場所さえ教えてくれれば一人で行けるものを、アルバイトの女は断りもなしに、腕を組んで歩き始めた。

歌舞伎町一番街、煌々と明るい看板を目指して歩くと、飲食店や工事現場から、都会特有の埃っぽい匂いが濃くなっていくのが分かる。パチンコ店からは耳がおかしくなりそうな音量で音楽が鳴り響いて、客引きの店員の底抜けに明るい声や、酔っ払いのとりとめの無い話し声が束になって、街をうねり続けていた。

「そう言えば高杉さん、編集長が、いつになったら携帯持つんだって怒ってましたよ。今時携帯電話持たないのなんて、あたしも信じられなぁい」

周囲の騒音に負けないように、アルバイトの女は声を張って言った。何か喋ったり動いたりする度に、緩いカールのかかった髪が揺れて、きつい香水の香りが立ち上った。町の匂いと混じって、鼻腔が変になりそうだった。

「高杉さんが携帯持ったら、ライン教えてほしいなぁ。そうしたら、編集長のおつかいじゃなくても、いつでも会えるのに」

女は髪をかきあげながら、上目遣いで俺を見上げた。自然なようで細かく計算された動作は、自分のどんな表情が綺麗に見えるのか、どんな仕草が魅力的に映るのか、熟知した女のものだ。そう思うと、一挙一動が芝居がかって見えて、下手な舞台女優のように滑稽だった。


とりとめもない話を一方的にしながら、女が俺を案内したのは、雑居ビルの地下にある小さなバーだった。
地下へ続く階段まで来た時、さすがに分をわきまえたのか、彼女は手を振って俺を見送った。片手を挙げて店へ行こうとすると、彼女は急に泣き出しそうな表情をして、瞳を潤ませて訴えた。

「ねえ高杉さん……。あたし、まだ、一緒にいたいな。待っててもいい?」
「待つって、何を」
「編集長とのお話が終わるまで、待ってるって言ってるの」

彼女は俺のすぐ側まで駆け寄ると、背伸びをして、ホテル行こうよ、と小声で耳打ちした。
そう言えば以前、原稿のデータを取りに家まで押し掛けて来て、帰り際にせがまれ、玄関でセックスをしたことがある。わざとらしい、大きな喘ぎ声が喧しくて、それを隣人に聞かれたのを思い出した。そのせいで隣人には非常識な女たらしと呼ばれる始末で、俺はその時の会話を思い出し、一人で小さく笑いを漏らした。

「いいよ。待たなくても」
「えーっ!?高杉さぁん!」
「遅くならないうちに、早く帰りな」

俺は踵を返して、地下へ続く階段を早足で駆け降りた。俺を呼び出した人物は、人の好さと押しの強さで、人気作家を次々に口説き落としては連載に持ち込んできた敏腕編集で、今は週間文藝という雑誌の編集長をしている。多忙の身ゆえ、待たせてはいけないと時間通りに来たものの、相手はまだ来ておらず、俺は一番端のカウンターに座ってバーテンに酒を頼んだ。

「ジンライム」
「お一人ですか?」
「連れを待ってる。坂本って奴だ」
「かしこまりました」

待ち人の名前を出した途端、バーテンの表情が柔和な笑顔に変わった。

それからどのくらい待っただろうか。奴がやって来たのは、既に何杯かグラスを空けた後だった。赤色に黒のストライプという、目が痛くなるようなスーツを着た長身の男が店に現れると、店中の視線が彼に集まり、一瞬しいんと店の物音が消えた。

「おう!高杉ィ!遅くなってすまんのう!!」

茶色のモジャモジャ頭のその男は、店中に響き渡るような大声で言ってから、俺の肩をバンバンと数度叩いた。俺はその手を雑に振り払ってから、早速文句をぶつけた。

「誘っておいて三十分も待たせるなんざァ、いい度胸だな。さすがは編集長様の御振る舞いだぜ」
「出掛けに部下に掴まって、抜けられんかったぜよ。それにしても、相変わらずおまんはガリガリじゃのう。ちゃんと食っとるんか?ん?」

親戚のじじいのような馴れ馴れしさで接してくるこの男は、坂本辰馬という。どこか胡散臭い土佐弁が繰り出す巧みな話術がうけて、最近はテレビのワイドショーにも出演している。天性の人たらしと言うべきか、独特の人懐っこさを持ち合わせていて、迷惑なほどの大声や時間のルーズさも何故か許せてしまう、不思議な空気を醸し出していた。

ただ、特徴的な容姿と声のでかさで、どこに行ってもとにかく人目を惹く男だった。店の中の視線が常ににこちらに集まっているような気がして、俺は居心地の悪さに何度も足を組み直した。

「いいのかよ。お前みてェな奴がこんな店に出入りして」
「どういうことじゃ?」
「週刊文藝の坂本辰馬っつったら、今や有名人だぜ。人様のプライベートを曝して金を稼いでるお前が、逆に記事に書かれでもしたら困るんじゃねェのか」
「この店は業界の連中しかおらんきに。それに、夜のバーで野郎相手に酒飲みしても、なァーんにも面白いことなんぞないぜよ」
「それもそうだな」

ビールで改めて乾杯をしてから、坂本はスツールを回転させ、俺の方に体を向けた。

「どうじゃ、仕事の方は」
「別に。普通」
「中学生じゃあるまいし、もっと社会人らしい返事が出来んモンかの。風俗ライターの真似事はまだやっとるんか?」
「たまに」
「おまんは三文字以外の返事を知らんようじゃ!ライターを名乗るなら、もっと語彙を磨くことぜよ!」

坂本はひとりで豪快にガハハと笑ってから、急に真面目腐った顔つきになり、

「うちの雑誌に載せてるおまんの書評は、評判がいい。次の誌面の改編の時にも、枠は残す」

と、俺の仕事の保証をした。
俺より一回りも歳上のこの男は、長年の友人のように屈託のない笑顔を見せたかと思えば、時々子を見守る親のように深い眼差しをするときがある。俺が文章を書き始めたきっかけになったのも、フリーでの活動の軌道を作ったのも、この坂本辰馬という男だ。恩義という意味では大いに借りがあり、時々呼び出されては、仕事の話をほんの僅かだけ聞いて、あとは奴の愚痴に付き合っている。


坂本は、飲み始めると話が止まらない。奴の話題は出版業界の疲弊に始まり、最近フラれた女の話、流行りの映画、新進気鋭の若手作家の新作と多岐に及んだ。そして、アルコールが回って舌が回らなくなってきた頃、

「のう、高杉」
「何だ」
「うちの雑誌で、小説ば書いてみんか」
「…………」

例えば、泣き上戸が酔っ払ってめそめそ泣き始めるのや、酔うと説教臭くなる奴がクドクド言い始めるように、坂本は酔うと決まって、俺にそう言ってきた。

「おまんが書いた話を読んだのは、いつだったか……もう、十年も前になるのか。あの原稿を、わしは今でも大事にとっとる。アレが日の目を見ることはないじゃろうが、わしはあれから、おまんに惚れこんどる」

男に惚れるなんて言葉を使われるのは気色悪いが、酔っ払っているのか本気なのか、坂本の目は据わっていた。

「ケツの青いガキが書いた未熟なモンじゃ。あのままじゃあ、とても金にならん。構成は荒削りで、文章はとっ散らかって……じゃが、時々女が書いたかと思うほど、流れるような完成された表現が顔を覗かせる」

貶しているのか褒めているのかよくわからないまま、俺は苦笑して、とりとめのない話に耳を傾ける。

「文章は練習すりゃあ誰だって上手くなるが、生まれもったセンスというものがあるとすれば、それはお前が持っているモンじゃ。わしはいつか、お前の名前で表紙を飾りたい。無名のお前が賞を取って、世間の脚光をいっせいに浴びるんじゃ。……わしの長年の夢じゃき。こんな話をして、また戯れ言を言ってると思うじゃろ。編集ちゅうんはな、一度狙いをつけた逸材を口説き続ける生き物じゃ。お前がその気になるまで、呆れられようが無視されようが、わしは言い続けるぞ」

呼び方がいつの間にか、お前、と変わっていた。酔っ払いの口調にしてはやたら熱がこもって、適当に相槌をうって聞き流すような雰囲気ではなかった。

「……お前みてェな立場の人間に、そう言って貰えるのがどれだけ有難ェことか、分かったうえで言うよ」

俺はそう前置きして、グラスの氷が溶けて酒の表面の色素が薄くなっていく様子を眺めながら、答えを告げる言葉を選んだ。

「俺は人に頼まれて、決められた原稿を書く方がいい。相手が何を求めてるか、どういうものを書けば悦ばれるか、分かっていた方が安心する。……終わりが見えるから、書き続ける気になれるんだ」

雑誌のコラムや記事を幾つか抱えるというのは、数百字、数千字、という大きさの湖を、泳いだりあがったりを繰り返す行為に似ている。湖は幾つもあるから、ひとつに留まることなく、水が乾上がったり飽きたりしたら、他の場所へ行けばいい。
それに対して、何もないところからひとつの物語を生み出すと言うのは、活字の海のずっと深い部分、真っ暗な深海に沈んだままで、ひたすら泳ぎ続けるようなものだ。小説を書く、俺はその行為を人生で一度しか経験していないけれど、それは葛藤と苦しみの中間にあった。浅くて温かい、湖を泳ぎながら生きていけるのなら、深い海へなど潜りたくない。


「……高杉よ」

坂本はグラスの氷をカラカラと鳴らしながら、酔いの回った虚ろな目をして言った。

「雑誌のひと隅にコラム書いて、おまんはそれだけで、本当に満足しとるんか」
「満足?」
「物を書く人間は、表現の使命を負って生きてるような連中じゃ。頭ン中にあるモンを、一欠片も残さず拾い上げて、原稿用紙に文字を並べて……でも、その時にはもう、次に書くべきことで頭が埋め尽くされとる。常に吐き出さないと頭がパンクする。だから書き続けとるんじゃ。おまんの頭ン中にあるモンは、数千字におさまるような代物じゃあないきに……」

途中から喋るのすら億劫になったのか、坂本は水っぽくなった酒を仰ぐように一息で飲み干した。
活字の海に棲む。隣人の言葉が脳裡を過る。俺の頭にはせいぜい数千字しか収まらなくても、活字が自由に溢れる世界というのは、この世にあるのだと知った。彼女の故郷だという山梨へ行った経験は、東京で暮らしていて長らく忘れていたものがあることを思い出させてくれた。
豊富な自然や田舎の静けさは、透明な水が永遠に続くように、多様な表現に溢れていた。それはどんな著名な人間に取材をするより、高い経費を払って資料を買うより、俺にとっては貴重な経験だった。

「この前、山梨にいったよ」
「……ほう」

面白半分に、俺は坂本に明かした。

「人生で初めて、女に殴られた」
「ほう!」

坂本は興味深いものを見つけた子どものように目を輝かせて、俺の話にくいついてきた。

「おまんの女か?」
「………いや」
「どういう関係なんじゃ。詳しく聴かせてみい」
「それは、話さない」
「何じゃあ、つまらんのう。おまんを殴るくらいの女なら、さぞ上玉じゃろう。もうヤったのか?あっちの具合はどうなんじゃ」
「お前なんかに教えてやるかよ」

仕事の話ではなく、最後に下世話な話をしてから、俺達はバーを後にした。もう終電はとっくに出ている時間だった。大通りに出ればすぐにタクシーを拾えたのだが、坂本と俺は酔い醒ましに、新宿駅の方までぶらぶらと歩いた。


真夜中でも、新宿という町は眠らない。極彩色のネオンが氾濫し、煙っぽく淀んだ空を煌々と照らしている。山梨の夜のように、空を見上げて星が見えるわけでも、虫の音が聴こえるわけでもない。感覚を研ぎ澄ませて言葉を選びとる、そんな静寂というものが、この町に訪れるときはあるのだろうかと考えているうちに、駅のすぐ目の前まで来てしまい、俺達は家の方向へと、別々にタクシーを捕まえた。

坂本は店の勘定を会社の経費で払っていたけれど、自分一人で飲んだ分まで奢られるのは気分が悪くて、俺は鞄から財布を取り出して金を払おうとした。その拍子に、鞄にしまっていた冊子がパサッと音を立てて地面に落ちた。

落ちたと思うより先に、坂本の長い腕がにゅっと伸びてそれを拾い上げた。奴は冊子をパラパラとめくって、眉をへの字にして顔をしかめてから、興味無さそうに俺に突っ返した。

「何じゃあお前、こんなつまらんモン鞄にいれて」
「何を読もうが、俺の勝手だろ」

俺は坂本の手からそれを奪い返し、元通りに鞄にしまい込んだ。雑誌編集者が“つまらんモン”と斬り捨てたのは、区の広報誌のことだった。



(Aに続く)
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