隣人と二度、恋をする

□chapter8.5 Baby,please once again
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山梨にある隣人の祖母宅で経験した夏は、俺にとっては過酷で稀有な体験だった。
肉体労働とは無縁の人生だ。慣れない農作業を一日こなすだけで、夜になると濡れた綿のようにぐったりして、一歩も動きたくないほどの疲労感に苛まれた。そうは言っても仕事の締切は迫っていたので、疲労を理由に連載を休むわけにもいかず、夜な夜な東京から持参したPCを開いて、一階の居間で仕事をしていた。

疲れて眠くて死にそうだったが、仕事環境としては悪くなかった。隣人の祖母宅はこじんまりとして、使いたいものが使いやすいように配置された、いい家だった。隣人と銀時は早々に二階で寝ていたので、夜の家は耳が痛くなるほど静かになった。
あまりに静かなので、ガラス窓を開け放って網戸のまま仕事をした。都会の八月では信じられないような、冷たい夜風がすうっと入り込んでくる。風が木の葉を揺らす音、夏の虫の声、遠くの国道を車が走る音。風にのって届く音は全てが慎ましく、それぞれがちゃんと意味をもっていた。
そこは、何が何だか分からない都会の喧騒とは、永久に隔離されていた。静かで涼やかな夜は、まるで天からの賜り物のようだった。隣人の言葉を借りれば、活字の海で泳ぐとするならば、こんな空間にいられたなら、永久に海の底に沈んだとしても生きてゆけそうな気がした。



そこに行けば、きっと何かが見つかる。俺はそんな期待とともに再び山梨を訪れ、一軒のブドウ農家を訪ねた。
偶然にも、家主はトラックの荷台にコンテナを積んでいるところで、俺に気付くと、驚いてサングラスを外した。

「おっ、晋ちゃんか!?久しぶりだなあ!!」

ブドウ農家の小銭形平次さんは、黒く日焼けした筋骨隆々の腕に、シャインマスカットを積んだコンテナを抱えていた。デラウェアの収穫は七月から八月だが、シャインマスカットはそれより遅く、八月から九月にピークを迎える。コンテナのブドウは瑞々しい粒が美しく重なって、黄色がかった果皮から芳醇な香りが漂うようだ。

「ご無沙汰しています。突然訪ねてすみません」

と、俺は頭を下げた。

「小銭形さんに頼みたいことがあるんです。仕事が終わってからでいいので、少し、お時間いただけませんか」
「ああ、構わないけど……」
「それ、手伝います。荷台に積めばいいんですよね」

作業や片付けを手伝ううちに日が暮れはじめ、日没とともに一日の作業は終わりを告げた。
小銭形さんは自宅に俺を招き入れ、冷たい麦茶を出してくれた。

「で、頼みたいことって何だい?」

小銭形家は木造建築の古くて大きな屋敷で、誰の趣味なのか、茶箪笥に不釣り合いなワイングラスが並んでいたり、毛皮のマットが置いてあったり、些か珍妙な感じのする家だった。
台所で夕食の支度をしていた奥さん――静さんというそうだ――も小銭形さんの隣に座ったので、俺は本題を切り出した。

「俺、こういう仕事をしています」

取材用にと坂本が作った、名刺を見せた。そして、ブドウの手伝いに来たことをきっかけにここの環境や暮らしに興味を持ったこと、取材というには堅苦しいけれど、話を聞かせてもらいたいということを伝えた。
すると静さんが、テキパキとした調子で言った。

「専門的な話を聞きたいんだったら、ウチみたいな小さな農家じゃなくて、もっと、ちゃんとしたところの方がいいんじゃない。農協さんとか、農業試験場とかさ。ねえあんた、紹介してあげなさいよ」

そういう訳ではない。そこではきっと、俺が欲しいものは見つからない。―――いや、俺自身まだ、一体何を捜しに来たのか、何を書くために来たのか分かっていないのだ。
違う、ということをどう説明したらいいのかと迷っていると、小銭形さんが助け船を出した。

「ウチは特別なことはしてないし、どこにでもある普通の農家だよ。面白いことなんてないと思うけど、いいのかい」
「はい。構いません」
「晋ちゃんがウチでいいって言うなら、断る理由はないよなあ、母さん。作業の片手間でよければ、話くらいはいつでもしてやれるし」

そう言えば、と小銭形さんは話題を変えた。

「晋ちゃん、今日こっちに来たのか?」
「ええ、車で……」
「まさか、これから東京に帰るんじゃないだろ?どこに泊まるんだい?」

適当に近場のホテルにでも泊まるつもりだと言うと、小銭形夫妻は大袈裟な素振りで俺を引き留めた。

「そんなことしないでさ、暫くこっちにいるつもりなら、ウチに泊まりなって!ガキ共はもう家を出てるから、部屋なら余ってるしさ!」
「そうよ。若い人がいると、私達も楽しいわ。ぜひ泊ってちょうだいな」

そこまでしてもらうつもりは毛頭なかったので、断ろうと思ったが、結構ですと好意を裏切るのも失礼な気がした。代わりに、取材を引き受けてもらったのだから、取材費として幾らか渡すことを相談したけれど、キッパリと断られた。金を貰うようなことは何一つない、取材の合間に作業の手伝いをしてくれればいいと、夫妻はどこまでも寛大だった。


夕食は、客人をもてなすために静さんが腕を奮った。とても食べきれないほどの、大皿の料理がずらりと並ぶ。
こんなに作ってどうするんだよ、アラいいじゃない、足りないより余る方がいいわ。いい男が来たもんだから、張り切っちゃうんだもんなあ母さんは。食卓に飛び交う夫婦の会話は賑やかで、リズミカルな言葉のキャッチボールが不意討ちで俺の方に寄越される。戸惑いながら何かを答えているうちに、ああ、家庭とはこういうものかと、奇妙な実感が沸いてきた。家族団欒の風景を、小説や映画で見たことはあっても、実体験としては初めてだった。思い返せば、家族や家庭といったものから、ずっと疎遠だったのだ。

「東京から運転してきたなら、疲れたでしょう。お風呂沸いたから、先に入ってちょうだい」

食事が終わり、静さんがそう勧めてくれる。脱衣所には、新しいバスタオルと新しい寝間着――おそらく、まだ封をあけていないものを準備してくれたのだろう―――が揃えて置いてあった。

さて、妙なことになったと思いながら、俺は湯船に浸かった。普段はわざわざ浴槽に湯を溜めないでシャワーで済ませているので、湯船で温まるのは久し振りだった。心地好さに自然と溜め息が出た。

夏の数日間、ともに働いただけの関係なのに、小銭形夫妻が手厚くしてくれるのが不思議だった。普通なら、事前の連絡もなしに突然押しかけたら、文句のひとつくらい言われて当然なのだ。俺だって当然、非難されるのは覚悟で門戸を叩いた。
少しだけでも話を聞ければ、それで十分だと思っていたのに、夫妻は非難するどころか歓迎し、嫌な顔ひとつしない。この家は、春の初めの陽だまりのように、ゆらゆらと解けるように優しい。手足の先からじんわり暖まってくるのを感じながら、彼らの人柄が郷土や文化が育むものだとしたら、それは隣人の、おっとりとした優しさに繋がるように思えた。




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