隣人と二度、恋をする

□Chapter9.Woman’s first love, Man’s last romanceA
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広報誌が刷り上がってきたのは、東京に吹く風に秋の深まりを感じる頃だった。
若手の私が特集記事を担当したということで、課内の職員は待ってましたと言わんばかりに、こぞって広報誌を手に取った。刷りたての冊子は、表紙がつるんと光っていて、まだインクが半乾きかと思うほど仄かな温かさがあった。

「なかなかいいんじゃない?頑張ったね、秋山さん」

第一声、長谷川さんがそう言うと、他の職員も口々に言った。

「短期間でよく一人で書いたなあ」
「写真もいいわね。よく撮れてるわ」

記事とあわせて掲載した写真は、妙ちゃんと旦那さんの許可を貰って、会場で遊ぶ近藤家の様子を撮らせてもらった。柔らかい秋の陽射しを浴びて輝く、妙ちゃんと娘さん達の眩しい笑顔は誌面に華を添えていた。他にも、運営に奔走する実行委員会のメンバーや、出店していたスタッフさん達へのインタビューと写真は、裏方の慌ただしさや会場の熱気を代弁していた。

でも、内心私は複雑な思いだった。自分なりに工夫して構成を考えて、つぎ込めるだけの時間を使って執筆に取り組んだものの、経験の浅い私ではやっぱり力不足だったらしい。書き上げたものに長谷川さんの修正が入り、更に補佐の修正が入り、私が書いた文章はあまり原形を留めていなかった。

本当に自分の書いた文章と言えるのかどうかはさておき、記事の最後には、〈構成・文・取材/秋山楓〉と、私の名前が載った。
人目に触れる場所に名前が載るというのは、こそばゆいような、誇らしいような、何とも言えない気持ちだった。自分の記念に一冊、そして写真を撮らせてくれた妙ちゃんに送るために一冊、大切に鞄の中に忍ばせた。



***



それから日に日に、風の冷たさとともに秋は深まり、幕が降りるような速さで夜を連れてくるようになった。退庁時間にはあたりはすっかり暗くなって、上着を着ないと外に出られないほどの冷えた空気が肌にしみる。私は薄手のコートを羽織ってストールを巻いて、バス停に向かった。

区役所のエントランスを抜けてからバス停に行く途中、花壇の影に喫煙所がある。昔は庁舎内に喫煙室があったのだが、禁煙と分煙の潮流に屋外へ閉め出され、喫煙者が片身の狭い思いで煙草を吸うスペースとなっている。
その喫煙所に、見覚えのある横顔を見つけて私は足を止めた。知り合いの職員だったら、頭を下げてお疲れ様ですと挨拶するだけでいい。けれど、そこにいたのは、

「高杉、さん……?」

ひとり煙草を吸う、高杉さんの姿があった。
暗い色のコートを着ていたので、闇に紛れてしまいそうだったけれど、街灯の明かりに照らされた煙草の煙や、艶がかった黒髪が、彼の存在を報せていた。突然、何の前触れもなしに彼が目の前に現れたことに、私はすっかり気が動転していた。

私に気がつくと、彼はうっすらと微笑んで手招きをした。

「何も言わずに引っ越したァ、愛想がねえな。引っ越す時は、隣には挨拶するモンだぜ」

と、彼は皮肉っぽく言った。
夏の時点よりも少し痩せたのか、頬から顎にかけてのラインがいっそう鋭くなっていた。でも、整った目鼻立ちや切れ長の目は、私の記憶にある彼の姿よりももっと綺麗で、私はまっすぐに彼の姿を見ることが出来なかった。パンプスの先を見つめるように、ずっと俯いたままでいた。

「今、何処に住んでるんだ」
「……単身者用の官舎です」
「どうなんだ?あのマンションと比べて」

孤独と仲良く共同生活を送る、薄暗い部屋を思い浮かべる。

「狭いですよ、すごく。埃っぽくて、暗くて、お化けがでそうなくらい古いです」
「そりゃあ災難だな」

彼は低く笑うと、備え付けの吸殻入れに煙草を投げ捨てた。それから背後の柵にもたれ掛かり、じっと私を見つめた。

「じゃあ、戻ってくるか」
「えっ?」
「502号室は引き払っても、501号室にだったら戻ってこれんだろ」

私は面食らって、顔をしかめた。

「それって……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ」

職場に突然現れて、いきなりそんな事を言うなんて、一体どんな神経をしているんだろう。
新宿駅で、彼が可愛い女の子と腕を組んで歩いていたのを知っている。彼はあの子にも、他の女の子にも、一緒に住もうなんて軽々しく誘っているんだろうか。

彼は煙草の箱をトン、と叩いて、新しい煙草を取り出して火をつけた。

「ずっと男と同棲してたんじゃあ、急に一人になんのは不安だろ。仕事部屋以外なら、お前の荷物を好きに置いて構わねェよ。クローゼットも台所も、お前のいいように使っていい」

私は頭の中で、以前足を踏み入れた彼の部屋の光景を克明に思い描いた。
殺風景なリビング。使用感のない、きれいなキッチン。本で埋め尽くされた仕事部屋。そして彼と初めて寝た、薄暗い寝室。

「お前がいれば、毎日だってできる」

何を、とは彼は言わなかったけれど、彼が意図したところは伝わった。

「そんなの、無理です」
「どうして」
「だって……最初に会った時も、ホテルでも、山梨でも、夜中はずっと仕事してたじゃないですか」
「セックスは夜にするもんだと思ってんのか?」

直接的な表現に、火がついたように顔が熱くなる。睨むように彼を見上げると、彼は煙草の煙をくゆらせながら、悠然と微笑んで言った。

「夜が駄目なら、朝にすりゃあいい。俺の仕事が終わって、お前が仕事に行くまでの時間が俺達の時間になるさ」

俺達の時間。彼が紡いだそれだけの言葉を端緒に、私の頭の中では様々なイメージが駆け巡った。

リビングのソファーの上で、仕事に行く格好のまま、彼に激しく貫かれる自分の姿。出勤しなくてはいけない、けれど彼に抱かれていたい、そんな葛藤の中で毎朝、貪るように彼との行為に溺れるのだ。朝、レースのカーテンから射し込む朝陽を浴びながらセックスするのは、どんな気分がするものだろう。明るいところで、肌の隅々を彼の目の前に曝すなんて、開放的で物凄く淫らだ。

そんな光景を頭に思い描いていると、彼は低い声で可笑しそうに笑った。

「お前は分かりやすいな。今、何を考えてたんだ」
「べっ、別に……何も、考えてません」
「そうかよ」

彼は含み笑いをしながら、私の髪にそっと手を伸ばした。春先に切った髪は、いつの間にか中途半端な長さにまで伸びて、あちこちにはねている。美容院に行く気持ちの余裕がなく、バサバサの髪をしていると思うと、自分の身なりが恥ずかしかった。

けれど彼はそんなことには構わず、私の髪に触れ、耳にかかる髪をかきあげた。髪に触れるのは―――他の人にとってはどうか分からないが、私にとっては、深い親密さを示す行為だ。いくら親しい友達同士でも、普通は髪になんて触らない。親が子どもの頭を撫でるのや、愛し合っている男女がお互いの髪に触れるのは、特別な親愛の情があるから。
だから彼が、手のひらでもなく肌でもなく、髪に触れた時から、体温が急にぐんと上昇した。頭の中でどんな妄想を繰り広げているのか、きっと彼には、手に取るように分かっているのだろう。

彼はそのまま腕を伸ばし、腰の辺りを抱き寄せようとしていた。その時ふと、バス停で待つ中年の男性が、こっちを見ているのに気付いた。人目のある場所で身体を寄せ合うなんて、常識のない男女だと思われているに違いない。

「人が見てる。やめてください」

手のひらで高杉さん押し返すと、彼はトン、と踵を鳴らし、一歩退いて私から離れた。

この距離を、保たなければいけない。私は自分にそう言い聞かせた。一度侵入を許したら、彼は容易に壁を崩して、彼のペースに取り込まれてしまうから。何のために銀時との同棲を止めて、ボロい官舎に引っ越したのか、忘れた訳ではない。

「高杉さん」
「何だ」

彼が何を言おうと、何をしてこようと揺るぐまいと、私はお腹の底に力を込めた。

「私……自分自身にけじめをつけるために、あのマンションを出たんです。あなたといたら、私は気持ちが弱いから、すぐに流されてしまう。……だから、あなたの所には行きません」

高杉さんと銀時の間でフラフラとする自分に、区切りを付けたかった。高杉さんと関係を持つ、複数の女の子のうちの一人でいることは簡単だけれど、一時的に体は満たされても、心までは埋めてはくれない。

行きません、そう宣言した私を目の前にして、彼は黙って煙草を吸っていた。誘いに乗らない女になんて、もう関心を無くしてしまったかのような態度だった。
視線も合わさず、お互いに無言を貫いていると、おさまりの悪い空気が流れ始めた。惨めさに耐えきれなくなる前に、彼の前から居なくなってしまおう。そう思い、バス停へと歩き出した時だった。


「楓」

よく透る声で、彼は私の名前を呼んだ。心臓が大きく震えて、警鐘のようにドキンと音をたてた。
足を止めて振り返ると、彼は短くなった煙草を指に挟んで、まっすぐに私を見て言った。

「もし、独りでいるのが心細くなって、誰かに逢いたくなったら……来たらいいさ」

多分、女の子に誘いを断られたことなんて無いであろう、彼の口から出た言葉は、意外なほど優しいものだった。

拒む隙もないほど強引であったり、突き放すかと思えば優しかったり。まるで磁石のN極とS極を交互に変えて、離れては引き寄せられるのを繰り返しているようだ。

そんな風に心が揺れるのは、目の前にいる人物の魅力を、充分すぎるくらい知ってしまったから。

「……教えて下さい、高杉さん」

体の相性が合う、割り切った体だけの関係だというなら、それでもいい。大勢の女の子のうちの、一人だって構わない。
彼がわざわざ、ここまで来てくれたことの意味を知りたい。

「高杉さんにとって、私って何ですか?」
「……Men always want to be a woman’s first love. Women like to be a man’s last romance」

流暢な英語だった。前半は何とか聞き取れたけれど、後半は右から左へと耳をすり抜けていった。
きょとんとしていると、彼が言った。

「オスカー・ワイルドの格言だよ」
「オスカー……?」
「アイルランドの劇作家だ。知らねェか。『ドリアン・グレイの肖像』」

全くピンと来ず、首を傾げたままの私に、彼はその意味を教えてくれた。

「“男は女の最初の恋人になりたがるが、女は男の最後の恋人になりたがる。”」

バス停に、官舎の方向へ向かうバスが来るのが見えた。大勢の人を乗せて、左右にゆらゆらと揺れながら、きいっと音をたててバスは停車した。乗車口から、次々に人が乗り込んで行くのを横目で見ながら、私は高杉さんに向かって言った。

「私の最初の人は、銀時です」
「あァ。最初の恋人はアイツかもしれねェが、お前の最初の男は俺だよ。……お前の最後の恋人は、誰になるんだろうな」

言葉遊びのように彼は言って、駐車場の方へと踵を返した。その後ろ姿を一瞬見送ってから、私はバスのドアが閉まる直前に、バスに飛び乗った。

最初の男、それは一体どんな意味なんだろう。
高杉さんと過ごした時間を思い返せば、刺激的な出来事や甘美な経験は、彼との関係の中にすべてが凝縮されていた。その意味では、私にとって初めての人は、高杉さんなのかもしれない。
何故なら、自分の名前を呼ばれた、たったそれだけでこんなに胸をかき乱されるなんて、高杉さんしかいないから。



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