隣人と二度、恋をする

□Chapter9.Woman’s first love, Man’s last romanceA
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どうやってバスを降りて、道を歩いて帰宅したのか覚えていない。気付けば私は、電気のついていない真っ暗な部屋の真ん中で、鞄を持ったまま突っ立っていた。

迷いと葛藤の渦中にあると、どうやら人は周りが見えなくなるらしい。高杉さんとの会話を何度も何度も思い返して、その度に、彼の所へ行くべきだったと、自分の中の優柔不断な私が金切り声で叫んでいた。彼に付いて行って、彼の意のまま流されて再び関係を持ったとしても、本当は、それを望んでいるんじゃないだろうか。

(……今更後悔したって、もう遅いわ)

踏ん切りのつかない感情を振り切るように、私は左右に頭を振った。パチンと電気をつけてコートを脱ごうとした時だった。カサ、と小さな音がして、コートのポケットから一枚の紙切れが落ちてきた。

一瞬、コンビニのレシートかと思った。でも、そこに右上がりの癖のある男の人の字を見つけた時、私はアッと声を上げそうになった。


“広報誌。お前の文章を見た”


そんな書き出しで、それは始まっていた。


“平凡過ぎてつまらない。

お前の感性で書け。

そうすれば、もっとマシになる。”


誰が書いて、誰がポケットにこっそり入れたのか、私はすぐに気付いた。喫煙所で、腰の辺りを引き寄せようとした時。私が拒んだその寸前に、あの手は私のポケットに侵入していたのだ。

たった四行の短い文章を、私は紙切れに穴が開くほど何度も何度も読み返した。やがて、込み上げてくる可笑しさを我慢できず、

「ふ、ふふっ……あはははは!!」

と声を上げて笑った。
平凡過ぎてつまらないなんて、そんなのは当たり前だ。区役所が発行する広報誌に、奇をてらったものを載せてどうするというのか。私なりの感性で工夫して書いた部分はあったけれど、上司の訂正が入ったお陰で、見事に没個性的な、言い方を変えれば、お役所らしい文章に変わってしまった。

紙切れに書かれた批評につっこみたいところは沢山あったけれど、あの人が私の書いたものを読んでくれた、捜して見てくれたということが、私を最高に有頂天にさせた。私だって文章を書いて、世の中に発信することができるんだと、胸を張りたい気分だった。

同時に、人の手で書かれた文字というのが、いかに特別なものであるかを思い知った。初めて目にした、彼が綴った手書きの文字は、彼が直に触れた紙の切れ端は、今私が持っているものの中で、間違いなく一番大切なものになった。

(……私のために)

ボールペンの筆跡に、そっと指を這わせる。

(私のためだけに、書いてくれたの?)

彼がわざわざ区役所まで来た意味は、私の手のなかにあった。

特徴的な字を見ているだけで、彼の愛煙する煙草の匂いや、ふとした瞬間に見せる微笑み、細い線の後ろ姿が、次々に頭に浮かんでは消えた。いつだったか日本橋のホテルで過ごした夜、彼の体のパーツ全てが自分のものになったように錯覚した時がある。何もかもが手の届く所にあって、体温も、声も、彼の全てを全身で感じていた。あの感覚が、気が狂いそうなほどに恋しい。暗く淋しいこの部屋に、どれでもいいから、たった一つでもいいからあってほしい。

官舎に引っ越して、あの人とも決別したつもりだったけれど、彼は私の中から消えてはくれない。むしろ、一度顔を見てしまったら最後、恋しさが物凄い勢いで蘇って、どうしたらいいのか分からない。
あの人が来いよと言った一言に、頷き付いて行ったなら、今頃は山梨の夜のように強く抱き合って、どちらかが力尽きるまでお互いを求め合っていただろう。


(行かなくて、よかったのかな)

区民祭りの時、妙ちゃんが言った一言が脳裡を過った。

“―――自分で自分を、正しかったって認めるの”

(私、これでよかったの?)

後悔という感情のうち、頭をかきむしりたくなるほど激烈で、気持ちが荒々しく昂る種類のものがあることを初めて知った。
私は紙切れを握り締め、行き場のない気持ちを閉じ込めるように、自分の胸を強く押さえつけた。張り裂けそうな胸の痛みは、もう暫く、消えてはくれそうにない。




(chapter9 おわり)
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