隣人と二度、恋をする

□chapter10.Baby,please don't go
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楓がマンションを出て行って、俺は広い部屋にたった独りになった。
あちこちに彼女の面影が残る部屋に暮らすのもつらかったので、俺もすぐに部屋を引き払って引っ越しをした。おおかたの家電は彼女に譲ったのと、新しい住まいを借りる金が無いという理由で、選択肢はただひとつ、十条のバアさんの家に戻ることにした。幸い、学生時代に使っていた部屋はそのままだったので、スーツやらテレビやらの荷物を運び込めば、俺の新しい住まいはすぐに出来上がった。

十条はよく知った町だし、下町の情緒漂う商店街の雰囲気は気に入っている。けれど、通勤時間は泣きたいほど長くなった。今までは原付で職場まですぐだったのが、満員電車に揺られて、乗り換えて、また満員電車に揺られる毎日だ。
恋人は部屋を出て行き、慣れない電車通勤に疲弊し、ウンザリするような日々だったが、朝が来れば仕事には行かなくてはいけない。そして俺の一日は、俺の意思に反して、毎朝強制的に始まるようになった。目覚ましが鳴る前から、スパーンと乱暴な音がして襖が開け放たれるのだ。

「いつまで寝てるんだい!」

ずかずかと部屋に上がりこんだバアさんは、カーテンを全開にして朝日を取り込み、俺の布団をべろんと剥いだ。

「さっさと朝飯食って、さっさと仕事に行きな!!」

夜のスナックの仕事をしているくせに、バアさんは必要以上に早起きで、朝っぱらから元気だ。台所に行くと、食卓に並ぶのは白飯と湯気のたつ味噌汁、アジの開きとホウレン草のお浸し、かぼちゃの煮物……。どうして年寄りは、朝からしっかり食える胃袋を持っているんだろうか。

楓との生活で、長らくパン食に慣れていた俺は、つい心の声が口から漏れた。

「朝から魚かよ……」
「文句言うなら、明日からあんたの朝飯は抜きだね」
「いただきますっ!!!」

朝ちゃんと起きる。しっかりと朝飯を食う。一人暮らしではなかなか難しいその二点を、バアさんは毎朝欠かさず俺にやらせた。そんなお節介のお陰で、廃人のような暮らしをせずに済んだのかもしれない。バアさんは戻ってきた理由を問うこともせず、昔から俺がここに住んでいるかのように振る舞って、他に俺に対してしてくれたことと言えば、食費と光熱費の請求くらいだった。

それに、十条の家に戻って嬉しいことが一つあった。それは昔のように、定春の散歩に行けることだった。朝と晩、近所の決まったコースを三十分。出勤前、寝不足の体に鞭打って散歩に行くのはきつかったけれど、日常のリズムに組み込まれていけば体が順応していく。
酷く落ち込むことがあっても、物凄く嫌なことがあっても、日常を過ごせるようにしていれば心は折れない。バアさんの作る朝飯と定春の散歩は、俺の生活の基礎だった。



***



ようやっと残暑が衰え、高く晴れ上がる水色の秋空を拝める日が増えてきた。穏やかに晴れた週末、バアさんは朝から町内会の行事に出掛けていたので、俺は思う存分に朝寝坊をした。

昼前に定春の散歩に出掛け、帰りにコンビニで弁当と箱のあずきバーを買って、帰宅しようとした時だった。家の塀の前で、つば付き帽子を深く被った男が行ったり来たりを繰り返していた。見るからに不審者で、定春も俺と同時にそれに気付き、グルル、と警戒して低い唸り声を上げた。
白昼堂々、犯罪の匂いを漂わせて人様の家の周りを徘徊するなんて大した度胸だ。だが、奴にとって不幸なのは、定春と俺のタッグに敵う奴はそうそういないということだ。

「定春」
「ワウ」
「行くぜ」

俺は定春に合図すると、慎重な足取りで不審者に近付いた。

「うちに何か用ですか」

相手と距離をとったまま、リードを握る手を緩めた。俺が合図すれば、定春は不審者めがけて一直線に突撃する。

「人んちの周りで、ウロウロすんのやめてくれません?警察に通報しますよ」
「何でィ、冷てェなあ」

男は聞き覚えのある声で言うと、深く被った帽子をとった。するとそこから、正露丸のような浅黒い肌と、白髪混じりの散切り頭が現れた。

「不審者扱いしねェでくれよぅ、兄ちゃん」
「あっ!アンタ……!」

俺は驚きの声をあげて、慌ててリードを掴み、定春が飛び出していかないように牽制した。
彼はバアさんが入院した時、大きな花束を持ってきた色黒ジジイだった。バアさんのことを“綾乃”と名前で呼び、関係を問い詰めたところ、バアさんの幼馴染みでヤクザの元組長という、衝撃の身分が明らかになったのだ。

「えと、……バアさんに何か用事ッスか?今日は、町内会の集まりに行っていないんスけど」

知り合い同士なら、わざわざ変装かと疑われるような怪しい格好をしなければいいのにと思ったら、また、犯罪の匂いを感じた。

「……もしかして、前からこんなストーカー紛いのことしてんスか?」
「違えよ。俺だって好きでうろついてる訳じゃねェやい。スナックに顔出したんだが、極道モンと付き合いのある店だって知れたら客足が遠のくから、店に来るのだけは絶対止めてくれって言われたんだよ。だからこうやって、家に来てるんじゃあねェか」

店が駄目で家に来たなら、さっさと呼び鈴を押せばいいのだ。それなのに、いつまでも家の前をウロウロとしてばかりだなんて、元極道の組長である男が、まるでクラスの女子に片思いする中坊みたいだ。
可笑しくて、面白くて、失礼だと思いつつ、俺は我慢できずに噴き出してしまった。一旦笑ってしまったら歯止めが効かず、ギャハハハと下品な声で笑い転げた。

爺さんは不愉快そうに唇を尖らせ、汗ばんだ額を頻りに拭っていた。

「可笑しいなら笑えや。勝手に馬鹿にしろってんでい」
「あはははは……いや、悪かった、笑うつもりはなかった、マジで」

散々笑ってから、俺は爺さんを庭に招き入れた。そしてコンビニで買ってきたあずきバーの箱を開け、軒先に並んで腰掛けてアイスを食べた。定春は、俺達が打ち解けて話す様子に警戒心を解いたのか、二人の間に陣取って、クアアと大きな欠伸をして目を閉じていた。

硬さが売りのあずきバーは、持ち歩く途中に少し溶けて柔らかくなっていた。シャリシャリとした歯ごたえと、小豆の粒の触感を味わいながら、ジジイと犬と一緒に、一体何をしているんだろうかと九月の空を見上げる。綿雲が斜めにゆっくりと流れ、何処から飛んで来たのか、赤蜻蛉がすうっと庭を通り抜けていった。
仕事に追われる日々の中で、こんな風に過ごす時間があるということをすっかり忘れていた。軒先に吹く風の中に秋を感じて、楓
と過ごしていたのが、随分と昔のことのようだ。


そこで俺はふと、バアさん本人に長らく訊けずにいたことを思い出した。
盆や彼岸、仏壇には欠かさず手を合わせるけれど、写真の一枚もないので、どんな人なのかずっと想像できずにいる。

「なあ、訊きたいことがあんだけど」
「何だい」
「バアさんの旦那って、あんた知り合いなんだろ?どういう人だったんだ」
「辰五郎のことかい」

爺さんは上着のポケットに手を突っ込み、煙草を取り出した。そして、

「いい奴だったよ」

と、ライターで火をつけて、じ……と音を立てながら深く吸った。ゆったりとした仕草の中に、回顧の念が目に見えるようた。故人を追慕する、しみじみとした思いが溢れていた。

「生意気で世話好きで……面倒事とあっちゃあ、首を突っ込まずにはいられねえような奴だったよ。鼻垂れのガキの頃から、顔を会わせれば喧嘩ばっかりしてたんだが、それはお互いが似た者同士で、どこかしら気に喰わなかったんだよな。ある時から、無二の親友だと思うようになったよ。……それから……」
「それから?」
「……辰五郎も俺も、綾乃に惚れてた。若い頃のアイツは器量がよくて、町を歩けば誰もが振り返るほどの別嬪だった」
「へー。そうなの」
「聞く気があんのかい、兄ちゃん」

俺の相槌に苦笑いしている爺さんは、昔の甘酸っぱい思い出に浸るような、何とも言えない、いい顔をしていた。 俺は、その顔を横目で見ながら尋ねた。

「どっちも惚れてたんなら、なんでアンタは退いたんだよ」
「ハタチになる前だったか、組の若頭に推されてなあ、いよいよカタギの連中とも仲良くしてられなくなったのさ。惚れた女とはいえ、綾乃を極道の女にするつもりは毛頭なかった。そこで、辰五郎に託したって訳だ」

ところが、結婚して数年後にバアさんの旦那は病に倒れ、子どもも出来ないまま、バアさんは独りになってしまったという。

「辰五郎が死んで、それから一人っきりで店始めて……大して儲かるモンでもねェのに、どこにも雇い手がねェような連中を従業員に雇って面倒みてやがる。俺からしちゃあ、世話好きを通り越して物好きに見えるよ」

スナックで働く、従業員達の顔が思い浮かんだ。そういえばキャサリンも、職が無くて困っていたところを、バアさんが手を差し伸べたのだ。

「あいつは面倒見は人一倍いいが、人に頼るとか甘えるとか、そういうことが昔から得意じゃねえ。辰五郎が死ぬ前、俺に何つったと思う?綾乃を頼む、アイツは意地っ張りだから、助けてやってくれ……ってよぅ。勝手に頼んで、断る事も出来ねえまま、勝手に先に逝っちまった。俺ァその約束を何十年も果たせないまま、こんな老い耄れになっちまったのさ」

確かに、バアさんは滅多に人を頼るようなことをしない。十二指腸潰瘍で入院した時も、前々から体の不調はあっただろうに、誰にも言わず平気な振りをし続けた。救急車で搬送されたのだって、キャサリンが楓に電話をくれて初めて分かったのだ。

スナックで毎晩毎晩、客から愚痴や相談事を聞かされているくせに、自分は弱音を吐いたりしない。独りで生きていくには、そんな余裕なんてないのかもしれない。
バアさんを頼む、そう託された爺さんは、これから一体どうしようというのだろうか。

「じゃあ、これからはアンタがバアさんを支えていくってわけ?」

そう尋ねると、爺さんは黙っていた。迷っているようにも見えた。
以前バアさんが入院した時、爺さんが見舞いに持ってきたのは確かガーベラの花だった。わざわざ花言葉を調べて花を贈るなんて、男はそんな真似をしないんだろうけど、あんなに可憐で華やいだ花に好意を感じるなという方が無理な話だ。

だが、相手はバアさんだ。半分干からびて乾物のように硬くなった心に、ロマンチックを感じる柔軟さはないかもしれない。

「あのさあ、バアさんに回りくどいことしても、多分伝わらんねェよ。ストレートに言えば?例えば、愛してるよ、とかさ」
「ばっ、馬鹿野郎おめえ、極道モンが女にンなこと……!!」
「おまわりさーん。ここにヤクザがいますよー」

冗談で言ってから、再び可笑しさが蘇って、俺はくくく、と笑いを噛み殺しながら言った。

「俺より倍以上の人生を生きてるのに、その歳になってもまだ、そういうことで悩むんだな。今時のませた小学生の方が、よっぽどスマートに告白してるよ。おかしな話だぜ」
「俺だって、おかしいと思うさ」

爺さんは煙草を灰皿で揉み消すと、爽やかな秋空を仰いで溜め息をついた。

「現役を退いて、隠居の身になって、初めて自分の人生ってやつを考えたよ。このまま死ぬのを待っててもいいのかと、やり残したことがあんのに、棺桶に入っちまうのかと……。向こうで辰五郎に会った時に、何やってんだって、どやされちまいそうでよぅ」

白い歯を見せながら、困り顔で笑う爺さんを、応援してやりたいと思う。
バアさんのことも、亡くなった旦那のことも大切に思っているからこそ、残された人生を彼らの為に使いたい。残された時間を、大切な人と分かち合いたい。それは本当に単純で、純粋な願いなのだけれど、年齢や照れ臭さが邪魔をして、なかなか伝えられないでいるのだ。伝えなかったら絶対に、必ず、後悔すると分かっているのに。


(“愛してるよ”、か)

けしかけてはみたものの、実際口にするのは気恥ずかしいフレーズだ。上っ面の飾りだけの、口説き文句のようにも聴こえるし、ともすれば重たく捉えられがちで、すらりと言える男の方が少ないだろう。本当に思っていても、なかなか言えない類の言葉だ。
自分自身を振り返ってみて、気付く。楓と過ごした時間の中で、愛していると、彼女に伝えたことがあっただろうか。伝えたい時、その気持ちを、言葉にできていただろうか。



(Aに続く)
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