隣人と二度、恋をする

□chapter15.Shape of my heartA
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古典の授業中に外を見ると、梅雨時期特有の風のないまっすぐな雨が降っていた。一昨日から断続的に続く雨は、校庭を水浸しにして運動部の練習場所を奪っている。連日の雨天を歓迎しているのは、ぼうぼうと背を伸ばす雑草と、部活時間が短くなると喜ぶ運動部の顧問くらいだ。

授業を受ける生徒の顔も、揃って曇り空のようにどんよりしていた。一限目の古典の授業なんて、やる気があるほうがおかしいのだ。授業終了の十五分前、俺は板書をきれいに消してから生徒達に言った。

「じゃー先週言ったとおり、古文の小テストすっから。教科書しまって」
「えー!!!」
「えー、じゃありませんー。テストするってこの前ちゃんと教えましたー。ちなみに、60点以下の人は課題を増やしまーす」

さっきより一段と大きい、えー、の抗議の声を無視して、俺は問題用紙を配った。昨日残業して作った小テストを、回収したらまた残業して採点するのかと思うとウンザリするが、生徒がテストを解いている間は、監視をする振りをしてボーッと出来る。

席の間を縫うように歩きながら、俺の頭には古典と全く関係のない考え事がぐるぐると巡っていた。昨晩小テストの問題を考えている間も、何度も頭に浮かんだ問である。


問1.セックスレスについての是非を、彼女の感情を考慮した上で選択せよ。

問2.現状を打開するための手法を思いつく限り複数列挙せよ。

問3.上記のうちから最も効果的な手法をひとつ挙げ手順を具体的に示せ。


どれに対しても明確な解を見つけられていないものの、俺自身で答えを見つけるべきものだと、見つけなければいけないと強く認識している。この問題に正面から向き合うようになったのは、文芸誌で高杉の作品を読んでからだった。

奴の綴った物語は、冷えた夫婦関係に悩む女性が主人公だった。感情の機微を巧みに表現し、セックスレスの哀しさが徐々に主人公を空虚の彼方に追いやっていく様子が生々しく描かれていた。漠然と、なんとかしなきゃと構えていたのを行動に移させる、迫るものがあった。

いつだったか楓は俺に、セックスレスで淋しいと訴えたことがあった。それがどんな風に淋しく、どれほどつらいものなのか、奇しくも俺は、高杉が書いた小説の主人公から、彼女のつらさを初めて推し量ることができたのだ。



***



セックスが快楽を満たすだけの行為だというなら、行為自体にあまり必要性を感じない。好きな時にいくらでもAVを観れるのだから、性欲を解消したいだけだったら右手さえあればすぐに済む。生身の女を相手にするよりずっと手軽で、あれこれと悩む必要もない。

でも恋人同士との関係では相手ありきの行為だから、一人でする方が楽なんて身勝手な事を言っていられない。そして相手がいるからこそ、自分の努力で事態を変えられるのかどうか、あやふやな所がまた複雑だ。

男女ふたりいれば、セックスに対する考え方や性欲が違うのは当然のことで、結局は、お互いの欲求をすり合わせて、折り合うところを見つけなければならない。俺の場合、行為そのものに嫌悪感と抵抗があって応じられないことが問題であって、自分ではどうしようもないので、第三者の助けだという結論に至った。そこでその手のカウンセリングをネットで検索して、一度訪問してみることにした。


週末に時間を作って目指したのは、都内のクリニックだった。比較的新しく、小綺麗なビルの一室で開院しており、磨りガラスから見える室内にいくつか人影がちらついているのが見えた。細部まで注意深く観察するのは、極度に慎重になっているせいだ。
その時、フロアの通路を行ったり来たりする不審な男を発見した。背丈も肩幅もかなりある、がっしりと大柄な男で、黒々としたアゴヒゲをたくわえていた。

「あー、どうしようかな……やっぱり今日は止めておこうかな……いやいや、ここまで来たんだ、あとは勇気を出して入るだけ……」

ぶつぶつとした独り言が丸聞こえだった。どうやら、クリニックに入ろうかどうか迷っている様子だったので、コイツが見ている前で先にドアを開けるのは、何となく嫌だなと思った。止めておこうか、やっぱり行こうかと躊躇する気持ちは俺も同じで、許されるなら、決心がつくまでの間、俺だってその辺を彷徨っていたい。

とは言え、大の男が二人してウロウロするのは不審であり、俺は歩幅を狭めてドアに近付いた。奴は俺の存在に気付き、自然とお互いの視線がぶつかる。正面から見ると顔の彫りが深くて、ゴリラそっくりの顔立ちをしていた。彼はじろじろと俺の髪の毛を眺めてから、野太い声で言った。

「君は確か、妙さんの大学の同級生の……坂田くんと言ったかな。珍しい髪の色だから、思い出したよ」

そう言われても、最初は誰だか分からなかったが、ゴリラ顔でピンときた。彼はかつて、友人の志村妙のストーカーをしていた男だった。毎日のように大学に現れて交際を申し込むものだから、困り果てて交番に相談したところ、当人が警察官だったというオチがついている話である。

彼は大股でずんずんと俺に迫ってくると、がっしと俺の両肩を鷲掴みにした。

「もしかして、君もここに用事があるのかい?ちょうどよかった!ちょっと、俺の話を聞いてくれないか。ここまで来たんだが、どうも入る勇気がなくて……」
「いや!俺は別に、用事というほどのことではなくて!ちょっと見に来ただけなんで!」
「そうか!実は俺もちょっと見に来ただけなんだが、どうやらお互い事情がありそうだし、話でもしようじゃないか!」

まさか知り合いに会うなんて思ってもいなかったので、想定外の事態に動揺した。なんとか切り抜けようとしたが、ゴリラ刑事は俺の肩を掴んだまま拉致してしまった。


連れていかれたのは、同じビルに入っている喫茶店だった。彼は奢るからと言って、アイスコーヒーをふたつ注文した。

「いやー、あんな所を見られてしまって、面目ない」

隅のテーブルに向かい合わせに座ってみて、彼がゴリラさながらに体格がいいのに圧倒された。俺より年配で社会経験が豊富だからか、子を持つ父親だからか、どっしりとした風格がある。妙を散々付け回していたストーカーだったのが、半ば信じられないくらだ。
彼の額には次々に大粒の汗が浮かび、彼は頻りにハンカチを当てて汗を拭っていた。これからプライベートな話題に踏み込んでいくかと思うと、俺の手もじんわりと汗ばんだ。コーヒーのストローに口を付けた時、ゴリラ刑事は重々しい口調で言った。

「極めて個人的な問題だから、打ち明けるのも気が退けるんだが……。うちは三人子どもがいてね、実は三人目が生まれてから、夫婦生活がパッタリなくなってしまったんだ」

気まずい話をされながら飲むアイスコーヒーは、泥水のような味がする。俺は耳を塞ぎたくなるのを我慢しながら、ただ頷いて話を聞いた。

「出産から半年も経てば、その、アレをしても体に支障はないと思うんだよ。でも何度誘っても、子どもの世話に追われて疲れてるから、とてもそんな気になれないと断られてしまって……」

他人の夫婦生活の悩みなんて聞きたくないと思うのは、誰だって同じだろう。たとえ金を貰ったとしてもご遠慮願いたいし、俺に喋るくらいなら、ちゃんとした専門家に金を払って相談してほしい。
だが、ゴリラ刑事の様子を見ていたら、だんだんと哀れになってきてしまった。普通にしていればどっしり構えた厳つい顔つきなのに、話の最中に目は潤みだし、小鹿のように頼りない表情になっている。悲しみのあまり眉間に何本もの縦皺が沈み、今にもワッと泣き出しそうだった。
深刻に悩んでいる人の言葉は、本心から出る。嘘がないから核心を突く。俺はいつしか嫌悪感を忘れて聞き入っていた。

「俺にダメな所があるなら、何がダメか正直に言ってほしいと頼んでも、あなたは何も悪くないの一点張りなんだ。ずっとこのまま出来なかったら、夫婦を続けていけるのか、溜まりに溜まった欲求はどうすればいいのか、本気で悩んでしまうよ……」

男は欲求に素直で、単純な生き物だ。俺は半分からかうつもりで訊ねた。

「欲求が溜まってるなら、風俗にでも行って抜いてくればいいじゃないんスかね」
「いや。妻がありながらそういう行為をするのは、俺にとっては浮気同然だ。若い女性にアレやコレをしてもらいたいとか、巨乳のお姉さんとイチャイチャしたいとか、思ったことは一度もない」

ああ、これは嘘だなと思いながら聴いていると、ゴリラ刑事は真剣な顔つきで言った。

「俺にとって、欲求を満たすためのものじゃないんだ。好きという気持ちの延長にあるものだから、大好きだと伝える手段なんだよ。もちろん、言葉では毎日伝えてるけど、それ以上の事を俺は伝えたい。それができないのが、一番つらいんだよ」

子どもっぽくて一方的な愛情だが、妙のことを物凄く大切に思っていることは伝わってきた。男はどこかで女に期待して、どんな自分でも受け入れてほしいと甘えてしまうものだ。俺だって自分を省みれば、楓なら俺のことを分かってくれると過信していた。男は見栄を張ってなんぼの生き物だが、見栄やプライドを一旦置いて、ありのままの自分とはどんなものだろうと、客観的に観察するのが大事なのかもしれない。

学生時代の志村妙を思い出してみる。しっかり者で、何事にも物怖じしなくて、きっと家庭に入っても何でもテキパキこなすものだと思っていた。子どもの二人や三人、彼女なら楽勝で育てられる気もするが、疲れたと弱音を吐くくらいだから、主婦業というのは相当体力がいるものなんだろう。

「育児で疲れてるっていうんなら、ちょっとでも負担を減らしてやれば」
「えっ?」
「あんたがこうしてごねてる間に、妙はひとりで子ども三人の面倒見てるんでしょ。たまには一日くらい、ゆっくり休んでもらったらいいんじゃないの」
「子どもの面倒なら俺だってみてるさ」
「そういう意味じゃなくてさ。男は仕事行って、家に帰って来て休むっていう切り替えができるけど、妙は主婦なんだから、ずっと家にいて、家事と育児っていう仕事に朝から晩まで追われてるようなもんだろ。毎日それじゃあ、ストレス溜まるし疲れるのは当たり前なんじゃねーの。あんたが家のことも子どものことも全部引き受けて、妙に休める日を作ってやったら、きっと喜ぶと思うよ」

休みたいと心では思っていても、気丈で頑張り屋の妙なら、自分からは切り出せないだろう。かえって自分がしっかりしなきゃと、尚更気負っているかもしれない。
男は総じて、察するという能力に乏しい。俺の話も推測の範囲を出ないのだが、ゴリラ刑事もそこまで想像が及ばなかったようだ。彼は目から鱗といった表情で、ガタッと音をたててやおら立ち上がると、

「そ、そうだよな!妙さんにばかり負担をかけて、これじゃあダメだよな!いいことを聞いたよ!」

ハイ、コーヒー代!と千円札を置いて、ゴリラ刑事はものすごい勢いで店を飛び出していった。一喜一憂が激しくて単純、でも思い立ったら即座に動く、その行動力が羨ましかった。俺自身、第三者に頼るという発想に辿り着くのに、一体どれだけの時間を費やしたのだろう。

ひとりになって飲むコーヒーは、ちゃんと豆の香りがして、ちょうどいい渋みを感じることが出来た。悩んでいるのは俺だけじゃない、そんな気持ちが背中を押した。今度は躊躇うことなく、クリニックのドアを開けられそうだった。

それにゴリラ刑事が言った、“大好きだと伝える手段”という台詞は、ストンと胸に落ちた。いつか俺も、そんな風に思える日が来るだろうか。



(Bへ続く)
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