隣人と二度、恋をする

□chapter7.Not us, but you&meA
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単身用の官舎へ正式に入居が決定した日、私は真っ直ぐ帰宅せず、最寄り駅から新宿方面の電車に乗った。銀時との同棲をやめるのだと、ちゃんと報告をしなければいけない人がいるからだ。

新宿はごちゃごちゃして嫌いだとずっと思っていたけれど、一人で来ると行き先を間違わないように、行き先表示の看板を捜すのに必死で、人の多さも喧騒も全く気にならなかった。複雑な構造の新宿駅を何とか抜けて、向かったのは歌舞伎町だった。お登勢さんに会うためである。


十二指腸潰瘍で入院していたお登勢さんは無事に退院し、経過も順調で、元気に働いていた。

「こんばんは、お登勢さん」
「おや。一人でくるなんて珍しいねえ」

まだ夜の早い時間のためか、スナックにお客さんの姿は疎らだった。お登勢さんは私にカウンターの席をすすめると、お酒の飲めない私のために、冷たいウーロン茶を出してくれた。

私一人でスナックお登勢を訪れるのは、これが初めてだった。知った場所なのにどうにも緊張してしまって、隅のカウンターで縮こまっていると、隣の席にカタンと音をたててお登勢さんが座った。

「何かあったのかい?」

勘のいいお登勢さんは、私が一人で来たのは理由があるのだと、すぐ勘づいたらしい。私はぐっと緊張を飲み込んで、お登勢さんの目を見つめた。

「あの、報告したいことがあって……。お登勢さん、私達、別々に暮らすことにしました」

お登勢さんの顔からすっと表情が消えていくのが、スローモーションで見えた気がした。

「銀時と別れるとか、そういうことじゃないんです。引っ越したいって言い出したのは私です。原因を作ってしまったのも、私です。このまま、一緒にはいられなくて……」

明確な理由を明かさないまま、たどたどしい私の説明を聞いてから、お登勢さんはそうかい、と小声で言った。

スナックのテーブル席で、サラリーマンのお客さんがひっそりと会話する声が聴こえてくる。私にはこれ以上話せることはなくて、お登勢さんが何か言ってくれるのを、じっと黙って待っていた。
どれくらい時間が経っただろう。テーブル席に従業員のキャサリンさんがついて、何か冗談を言って笑わせていた。その歓声に紛れるように、

「ババアの独り言だと思って、きいとくれよ」

と、お登勢さんはそう前置きして、カウンターに置かれた皺だらけの手を見つめながら口を開いた。

「あたしは子どもがいないから、銀時を実の息子だと思って接してきた。……とは言っても、アイツが家に来てから社会に出るまでのほんの短い間だったから、母親らしいことなんてろくにしてやれなかったけどさ。自分の面倒は自分で見れるように、最低限のことは出来るようになれって、炊事洗濯の家事だろうが犬の散歩だろうが、無理矢理やらせてた。文句は散々言われたけど、サボったり、やらなかったりすることはなかったっけ」

もともと器用なのもあるだろうが、銀時が家事を一通りそつなくこなせるのは、お登勢さんのお陰でもあったのだ。

「あんたも知っての通り、アイツは本当は真面目で優しい子だけど、口が悪くて捻くれてるところがあるだろ?女は優しさはさておき、キッパリ直球でくる男が好きだからさ、いつか、誰かがアイツのいいところに気付いてくれるといいなって、心を許せるような子が出来たらいいなって思ってたところに、あんたみたいな子がアイツを選んでくれてさ。もう、何も心配することないと思ってたのさ」
「お登勢さん……」
「就職が決まって、あんたと一緒に暮らすって聞いた時もね。あんた達がいつか結婚して、子どもが産まれたら、その時は孫が出来たように思うのかねえなんて……気が早いって笑われそうだけど、そんなことを夢見てた。年寄りは自分のことより、若い連中の人生の節目節目の方が、ずっと楽しみになるモンなんだよ」

それからお登勢さんは手元から視線を上げて、私の目を見つめた。

「あんた達がこれからどうするのか、それはあんた達で決めることだから、あたしは口出ししない。でも、その夢はまだ、取っといてもいいかねえ」

多分、息子の恋人程度の認識だったら、同棲の解消くらい軽く聞き流すのかもしれない。お登勢さんは……自惚れかもしれないけれど、私のことも家族のように思ってくれているから、迷って躊躇って、自分の気持ちを話してくれたのだ。

もし、同棲をやめると自分の母親に言ったら、結婚に至らない同棲なんて意味がないとか、合わない男とは即座に別れろとか、きっと私達を否定しただろう。父親がよそに女をつくって出て行った経験からか、母は男性に厳しくて、恋愛を疎ましい類のものだと思っている。

お登勢さんは旦那さんを早い時期に病気で亡くしたと、以前聞いたことがある。スナックを経営しながら、苦労も沢山あったろうに、お登勢さんは私の母のように人生を悲観したり、無闇に恨み辛みを並べたりしない。誰に対しても寛容で、竹のようにしなやかで、なれるならばお登勢さんのような女性になりたいと思う。


そんな人と巡り合えたのに、いつかは会えなくなってしまうのだろう。鼻の奥がじいんと熱くなって、込み上げる思いのまま、私は言った。

「お登勢さん……。もし、銀時とうまくいかなくなっても、私、また、此処へ来てもいいですか?」
「何言ってんだよ、当たり前じゃないか。あんたはもう、私の娘みたいなモンだから。いつでも遊びにおいで」
「はい」

私は安心して、大きく頷いた。銀時の優しさがこの人から受け継がれたものなのだと思うと、自然に涙が出た。お登勢さんは黙って、新しいおしぼりをひとつ手渡してくれた。




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