隣人と二度、恋をする

□chapter8.Swimming in the sea of wordsA
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引っ越しをする前、俺は坂本が住む港区の高層マンションの近所に、ワンルームの部屋を借りて住んでいた。都心の生活は便利で快適だったが、仕事をこなすうちに資料や本が増え過ぎて、生活スペースを侵食し始めた。しまいには眠っていても本の気配や紙の匂いに包まれて、今にも書籍に埋もれて窒息しそうな息苦しさに耐えきれなくなった。
新居の条件は、仕事部屋と寝室を分けること。都心の喧騒に飽きていたので、騒がしくない住宅地。二階以上の角部屋。そんな条件に合った部屋を見つけ、俺はそこで隣人と出逢った。


歌舞伎町で坂本と飲んだ帰り、俺はタクシーに乗り込んでシートに身を沈めた。

「◯◯駅まで」

深夜は道が空いているとは言え、マンションまで三十分はかかる。俺は坂本がつまらんモンと言い捨てた、区の広報誌をパラパラとめくった。
行政に関心がある訳ではない。知りたい情報がある訳でもない。広報の仕事をしている、そう隣人が言ってから、彼女が作っているものはどんな代物か見たかっただけだった。
隣人については僅かな情報しかなく、区役所に勤めていて、母方の実家が山梨のブドウ農家であることくらいだ。けれど彼女の妙味を誰よりも知るのは、俺自身だと自負があった。


初めて彼女の顔を見た時、今から死に行くような目をしていて、酷く危なっかしい女だと思ったのを覚えている。小柄な体型のためか幼く見えたが、顔の印象や服装から、二十代の半ばを過ぎていると分かった。
その年頃の女は、だいたいは男によく見られたくて、外見を気にしたり体裁を取り繕ったりするものだが、彼女はそんなことを気にしなかった。感情がそのまま面に浮かび、戸惑いや迷いがいつも澄んだ瞳に揺れていた。常に自然で、正直だった。女の武器を知り尽くして自信に溢れた女達や、うわべだけを取り繕って男に媚びを売る女達と、彼女はまさに対極にいた。隣人に興味を持ったのは、そんな些細なきっかけだった。

彼女を部屋に誘ったのだって、ほんの気まぐれだった。同棲している男がいるのに、名前も素性も知らない隣人に誘われて部屋に来るタイプではないと思っていたから、どんな反応を示すのか見てみたかった。意外にも彼女は誘いに乗り、セックスをした時の反応は、処女を抱いているように新鮮だった。男と住んでいるくせに、男を知らないような初心さを見せつつも、のぼりつめることはちゃんと知っていた。それは無意識のうちに、快感にブレーキをかけているのだと後々分かったのだが、欲求を持て余しながら恋人とのセックスレスに悩む彼女は、ひどく不安定でアンバランスだった。

それでも数度夜を共にする度に、隣人は色々な表情を見せるようになった。控えめに、恥ずかしそうに微笑んでみたり、年相応の悩ましい表情で、あだっぽい喘ぎ声で悶えてみせたり。彼女とのセックスは、悪くなかった。いや、控えめに言ってもとても良かった。素朴で飾り気がなく、いかにも“イイ子”っぽい女が快楽の海に溺れる様子は、男の支配欲を満たし、今までに感じたことのない興奮を俺に植え付けた。教えれば教え込むほど淫らな変貌を遂げるだろうと、そんな確信があった。

ただ唯一、最大で最悪の誤算は、隣人の恋人が旧知の幼馴染だったということだ。
黙っていれば何も無かったことにも出来たのだが、雄の本能なのだろう、隣人の男が知った相手だと分かると、途端にむくむくと闘争心が芽生えてきた。そう簡単に関係を絶ってやるものかと思ったのは、そんな対抗心からなのか、それとも既に隣人にのめり込んでいるからなのか、俺自身も判別がつかないでいた。



***



マンションの隣の502号室から銀時が訪ねてきたのは、残暑が衰えかけてきた九月の半ばのことだった。

「話がある」

玄関のドアを開けるなり、銀時は唐突にそう言った。奴の顔をまともに見て会話をしたのは、山梨のブドウ畑で殴りあって以来だ。

「楓が引っ越した。俺も明日引っ越す。部屋は、引き払う」

短い文章で続けざまに事実を述べられ、俺は面食らった。“楓が引っ越した”、銀時の言葉を文字通り解釈すれば、隣人は既に502号室にはいないことになる。
部屋を引き払い、別々に暮らすということは、恋人達にとってとうとう関係が決着したのかと思われた。

「言っとくがなァ、別れた訳じゃねえからな」

俺の思考を読んだのか、銀時はそう言って俺を睨み付けた。

「あいつが、自分の気持ちに区切りがつくまで。俺達の今後に、答えが出るまで。……それがいつになるか分かんねェけど、一緒にいたら俺達は、同じ場所に止まったままになっちまうから。だから別々に暮らすんだ」
「……んなこと、何でわざわざ言いに来たんだよ。黙って居なくなりゃあいいじゃねェか」
「てめえに言いたいことがあるから来たんだろーが」

すう、はあと音を立てて深呼吸をしてから、銀時は目を据えて俺を見つめた。

「俺は、てめえが嫌いだ。死ぬまで会わなくてもいいと思うくらい、嫌いだ。だからてめえと喋るのはこれが最後だって、そう思って聞け」

嫌いという言葉を二度使われたことに苛立ちを覚えた。俺だって、何べん使っても足りないくらい嫌いだ。死ぬまでどころか、死んでからも会わなくていい。そう言い返したいのをぐっと我慢して、俺は奴の言葉を待った。

「楓がお前に惚れてんのか、正直俺にもわかんねえ。でも、もし、万が一、何かの間違いで、あいつがお前を選んだとしたら……、お前が、あいつの側にいることになったとしたら……」

そこまで言った時、銀時の目の色が変わった。

「あいつを泣かせたら、絶対、お前を許さねェぞ」

奴の目は、ぞわりと産毛が逆立つような冷たい色をしていた。普段は死んだ魚のように濁った色をしているくせに、たまに別人のような目をするから困惑させられる。
一か月前、ブドウ畑で殴りあった時もそうだった。奴が地面に落ちた鋏に手を伸ばした時、鋏の刄と同じ鈍色の光が瞳に燃えていた。本気で殺意を抱いている人間と対峙していると、その時は心臓が強張るような思いをした。

俺と銀時は暫く睨みあっていたが、俺自身どうにも釈然としなかった。そもそも、隣人の苦悩の原因は誰にあるかということを、コイツは忘れているんじゃないだろうか。

「楓を苦しめてきたお前が言える台詞かよ」

そう言うと、銀時はジロッと俺に一瞥をくれ、背を向けて逃げようとした。逃げるつもりはなかったのだろうが、言いたいことだけ言って退散する銀時に腹が立った。

「オイ、銀時。待てよ。……銀時!」

俺はサンダルに裸足の足を突っ掛けて奴を追った。ところが引き留めるのを無視して、銀時は自分の部屋にさっさと入ろうとしていたので、俺は声を張った。

「てめえの都合で泣かせようが苦しめようが、俺には関係ねェんだよ。けどなァ、本気で惚れてる女なら、なんで出ていくのを許したんだ。てめェは人が好過ぎる。人に獲られるのがそんなに嫌なら、泣かすななんて俺に言うんなら、無理矢理にでも側に置いときゃあいいだろう」

銀時はドアの影から顔を覗かせ、見下したような目で俺を見た。それから、ハッと鼻で笑った。

「っとに、バカだなァ、てめえは」

唐突にバカ呼ばわりされ、カチンとこない人間はいない。殴りかかってやろうかと拳を握ると、銀時は急に捨てられた犬のような目をして言った。

「好きだから、幸せになってほしいと思うんだよ。俺といるのがあいつにとって幸せなのかなんて、そんなん、俺には分かんねェよ……」

そう言われて、返す言葉が見つからなかった。セックスレスに不満を持っている以上、100%の幸せはあり得ない。だからと言って、俺が毎日毎晩のように隣人を抱いたとしても、彼女は幸せだなんて言わないだろう。彼女はそんなふたつを天秤にかけて、どちらかを選ぶのだろうか。考えているうちに、隣の部屋のドアが静かに閉まり、銀時の姿は見えなくなった。

奴と顔を合わせて話すのは、これが最後かもしれない。そんな考えが頭に過りながら、俺は部屋に戻った。銀時の替わりになるつもりはないが、俺は隣人のために、一体何をしてやればいいのだろう。どうすれば分からない、手探りの状態で立ち止まってしまうのは、俺も銀時も同じだった。幸せというものをよく知らないから、俺達は迷っているのだ。



(Bに続く)
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