隣人と二度、恋をする

□chapter8.Swimming in the sea of wordsB
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『To:坂本 辰馬
Subject:次号の連載について

本文:




        




メールの編集画面のカーソルは、せわしく点滅しながら左から右へ移動し続けている。煙草を挟んだ指をスペースキーに置いたままなことに気付き、危うく灰がキーボードに落ちるところだった。何を打とうとしたのか思い出せず、いつからか俺の手は止まっていた。そもそも先日会ったばかりの坂本に、一体何を連絡しようとしていたのだろう。

銀時が報せに来た、隣人が引っ越しをしたことに動揺しているのか、銀時が隣人に傾ける感情の種類に驚いているのか。キーの定位置に指先を置いていても、思考は全く別のところに漂っている。

俺は吸わずに灰になった煙草を揉み消して、椅子の背凭れに深く沈んだ。様々な感情が入り混じって、頭の整理がつかなかった。煙か霧のようなものがぼんやりとかかって、道に迷っている訳ではないのに、覚束ない感覚。こんなことは、何年振りだろう。十年ほど前、初めて坂本に出逢った頃は、毎日ふらふらとして先が見えなかった。

あの時、俺は十八歳だった。



***



屋上から見上げる霞がかった空に、雲が静かに流れてゆく。予鈴が聴こえて、グラウンドで騒いでいた生徒達が競うように校舎に戻り始めた。フェンス越しに下を見ると、生徒達は揃いも揃って、顔じゅうに笑顔を浮かべてふざけあっていた。青春の真っ只中を象徴するような眩しさが煩わしくて、俺は目を逸らして煙草に火をつけた。

白い煙は細く空に立ち上っては、風に流されて一瞬で消える。こんな風に儚く、跡形もなくいなくなってしまえたら幾らか楽だろうと、いつも考えていた。

「あー眠ィ……」

コンクリートの上で大の字に寝そべった銀時が、そう呟いて欠伸をした。俺は振り返って尋ねた。

「どうする。午後」
「サボる」

即答してから、銀時は俺の方に体を向けて、下卑た笑いを浮かべた。

「なァお前、二組の……とヤッた?」

名前が聞き取れなかったので、俺は首を傾げた。

「誰だよそれ」
「二組の一番カワイイ子だよ!」

銀時はガバッと起き上がって言った。

「胸がデカくて、脚細い子!うちのクラスの女子が騒いでたぜ、隣のクラスの子に高杉クンを獲られたって」
「俺ァ誰のモノでもねェし。ンなこと知らねェよ」
「ヤッたのかヤッてねェのかくらい教えろよ。ソイツさあ、オヤジと援交してるって噂あって、女子から煙だがれてんの。やっぱそういう奴って、処女より緩いモンなの?」
「そんなに気になるんなら、てめェでやってみろよ」

言った途端、銀時はぐっと言葉を詰まらせて、腕を後ろで組んで再び寝そべった。

「……俺は、そーいうのは、好きになった子とするって決めてんの。てめェみたいに、女とくりゃあ来るもの拒まずの奴とは違うんだよ」

性欲があるくせに我慢して、好きな女が出来ればどうせセックスするのだから、発散したい時に解消しておくのと一体何が違うんだろう。答えることが面倒になって黙っていると、いつの間にか、銀時はぐうすか鼾をかいて寝始めた。

若い頃はいくらでも眠れると言うけれど、銀時は本当によく寝る奴だった。その間、俺はいつも文庫本を読んで暇を潰していたのだが、夕方になる頃には読み終わってしまうので、銀時を叩き起こして帰っていた。

帰ると言っても、養護施設はほぼ寝るためだけの場所だ。
入所している子供達は、何かしらの事情で家庭で過ごすことができないけれど、本当は誰もがどこかで親の愛情や家庭生活を求めている。忍耐や諦めを覚えなければならない子供達の表情は、年齢にそぐわない憂愁を漂わせていて、やるせない気持ちになるのだ。

幸せな生活というのは、きっと自分達の場所とは違う世界にある。そんな現実に背を向けるように、文庫本の小説を読み耽っていた時だった。

「高杉―――!!!坂田―――!!!」

突然大声が響き渡って、銀時が魚のようにびくっと跳ねて飛び起きた。

「いつまでそこにいるつもりだ!?さっさと教室に来い!!」

学級委員長の桂小太郎が、グラウンドから屋上に向かって叫んでいた。俺達のサボりを注意しにくる、勤勉な同級生だ。
銀時は面倒臭そうに起き上がると、屋上のフェンスから顔を出し、間延びした声で言った。

「委員長〜。俺達午後は自習なんで、放っておいてくださーい」
「勝手に自習する馬鹿がどこにいる!?とっくに授業が始まってるぞ!さっさと来い!今から迎えに行ってやるからな!」

桂が大股で校舎に戻っていくのが見えた。このままでは教室に連れ戻されてしまうので、俺は銀時にひらひらと手を振って屋上を後にした。勿論、教室に行くつもりなどない。屋上で読書するのが駄目なら、他の場所に行くしかないからだ。高杉!と銀時が不満そうに呼んだが、聴こえない振りをして校舎を去った。


昔から、人と関わるのは得意ではなかった。友達も欲しくなかったし、一人でいるのが一番気楽だった。銀時に限っては、適当な距離を置いていつも一緒にいたけれど、どこかで後ろめたい思いがあった。
銀時と俺とが決定的に違うのは、奴が俺にはないユーモアを持っていることと、面倒臭がりのくせにお人好しだったことだ。わざわざ注意しにくる学級委員を無視することもしない。毎日毎日厭きもせず言い訳を並べ立てたり、ムキになる桂を面白がって笑ったりするくらいには。きっと俺がいなければ、銀時は俺と違う側の―――青春を謳歌している、大勢の高校生の方にいるのだろう。
同級生の屈託のない笑顔や、部活動や勉強に没頭する、溢れんばかりのエネルギーが全て煩わしかった。それっきり俺の足は、校舎へは向かなくなった。



***



誘ってくる女がいたら、何も考えず誘いにのって外泊を続けた。知り合いの女の、そのまた知り合いを転々とするうちに、俺は雑貨や家具のバイヤーをしている女のマンションに身を寄せていた。
高価なものに身を包んで己を着飾るのを同じように、自分好みの男を側に置いて、気が向いた時に構いたいというタイプの女だった。後腐れがないという点では、気楽な関係だった。


「ねえ高杉クン」

外食に連れ出された高い店で、女は宝飾品で飾られた手で俺の手を取った。

「あたし、明日からフランスに行くのよ。お土産、買ってくるからね」

その女は海外での買い付けか何かで、数週間単位で家を空けることがよくあった。俺は気儘な飼い猫のように、マンションに帰ったり帰らなかったりしながら、暇な時間を持て余していた。

たまたま近くに図書館を見つけてからは、興味のある本を片っ端から借りて、マンションに籠って読み耽った。そのうちに、このくらいの文章なら自分にも書けるかもしれないと思い立ち、使っていないパソコンを立ち上げて試しに文章を書き始めた。
恋愛の経験も冒険の経験もない、齢十八の俺に書けたのは、俺自身の人生、いわば自叙伝だった。

物心つかない頃に母親が離婚して、再婚相手の父親との間に三姉妹をもうけた。父親は実子でない俺のことを酷く嫌悪し、成長するにつれて、生みの親である母親さえ俺を煙たがるようになった。俺の容姿が、別れた男に酷似していたからだと思う。両親から投げかけられる、蔑むような冷たい目線を思い出す度、たまらない憂鬱に頭が覆われる。
妹達は目に入れても痛くないほどに可愛がられていたけれど、俺にいたっては躾と称して頻繁に殴られ、いつだったか逆さまに吊し上げられて、冗談ではなく死にかけた。妹達が近所に助けを求めて俺を降ろしてくれなければ、多分、両親は殺人の罪で塀の中にいただろう。その出来事がきっかけで、両親や妹達と離れ、施設に入ったのだ。

必要とされない人生だ。死にかけた人生だ。
成長しても生きる意味を見出せない少年は、物語の終盤には、空に消える煙草の煙のように、誰にも知られることなくひっそりと死んでいく。

実体験や、こんな筈ではなかったという反発を書き起こすのは、記憶を掘り起こし、自分自身を見つめなおすという、苦しい作業だった。常に苦悩し、理想と現実の間で葛藤した。けれど途中から不思議な使命感が沸いてきて、何とか形にしなければならないという一心で、何度も推敲を重ねながら書き続けた。
今から思えば、孤独とか淋しさとか、その他の名前のつかない感情を一片も残らず書き出して、誰かにぶつけてやりたかったのだ。十八歳の俺にできる、精いっぱいの叫びだった。




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