隣人と二度、恋をする

□chapter11.Birth,End & Reunion@
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職場の喫煙所で高杉さんに会ってから、私は毎日退庁するたびに、今日も彼が待ち伏せしているのではないかという淡い期待を抱くようになった。
晩秋の宵闇は、彼の深い黒色の髪を思い出さずにはいられない。きょろきょろと彼の面影を捜して、居ないと分かると、胸の中心が急にうすら寒くなった。その度に、「来たらいいさ」と彼が誘った一言に頷かなかったことを、息が苦しくなるほど後悔した。

例えば、スーパーのレジが混んでいて、どの列に並ぼうか迷った時、自分の並んだ列よりも隣の列の方が早く進むと、あ、と思う。でも、それは後悔とも呼べないくらいの、ほんの一瞬のものだ。スーパーを出る頃にはそんな些細な事は忘れてしまって、「あ」と思った事すらも、塵か埃のように消えてしまう。
私の心にあるのは、それとは対照的に、日に日に静かに積もる雪のような、簡単には拭い去れない未練だった。


いつの間にか、街路樹の紅葉は色づいた葉を地に落とし、裸の枝が寒そうに風に揺れていた。季節が冬へ移り変わろうとしているのを、肌で感じる季節になった。
その日仕事から帰宅すると、悪い報せといい報せが同時に来た。バスに乗っている間に母から着信があり、帰宅してすぐに電話を折り返した。母が電話を寄越すのはだいたい悪い用事なので、身構えていると、もしもし楓、と母が電話に出た。

「おばあちゃんの具合がよくないのよ」

何のクッションもなく、母は本題を言った。
急にみぞおちを蹴られたように胸がドキドキし始めて、喉が塞がったみたいに苦しくなる。母は沈んだ声のトーンで話を続けた。

「骨折して入院してたでしょう?手術する予定だったんだけど、肺の調子が悪いみたいで、手術が先延ばしになっていてね。先週熱を出してしまって、それから食事を全然、受け付けなくなっちゃったのよ」
「そう、なの……」
「今は、鼻からチューブを入れて栄養を摂っているの。あんまり、話もしなくなっちゃったわ」

ブドウの収穫の手伝いに行った時、祖母はとても元気そうに見えた。自転車で坂道を登ってお見舞いに行って、早く結婚しなさい、花嫁姿が見たいからと、話したのを覚えている。
母から聞かされたのは全く知らない別の人の話のようで、半分信じられなかった。

「お母さん。おばあちゃん、良くなるんだよね?」
「あなた、年末は帰って来るんでしょう。それより前に、お見舞いに行ってやってちょうだい。孫の顔見たら、きっと元気でると思うから」

母は私の質問には答えずに、くたびれた声の余韻を残して電話を切った。母自身も、祖母の状態に戸惑い、ショックを受けているのだろうということが伝わった。

祖母はもしかしたら、以前のようにブドウ畑に立つことは叶わないのだろうか。育てていた野菜畑は、どうなっているんだろう。母はピアノを弾く指が汚れるからと言って、土を触ることを物凄く嫌がる。ブドウも野菜も、誰かが面倒を見なければいけなのに。

今度の週末に、日帰りでもいいからお見舞いに行こうか。そう思って手帳を開いた時、携帯の画面にラインの新着メッセージが表示された。

「楓、久しぶり。先日、無事子どもを出産しました」

あ、と思わず声が出た。妙ちゃんからの出産報告だった。

「元気な男の子です。母子ともに健康です。もし、よかったら顔を見に来てね。」



***



妙ちゃんが週末には退院するというので、金曜に定時で退庁し、病院に面会に行くことにした。

産婦人科なんて生まれてこのかた訪れたことがないので、どんな雰囲気なんだろうと緊張しながらドアをくぐった。受付は柔らかい印象のパステルカラーで統一されていて、子どもが好きそうな可愛らしいぬいぐるみが飾ってある。

「あの、友人の面会に行きたいんですが……」
「エレベーターで3階にあがってください」

看護師さんに言われるまま行くと、入院棟の入り口には備え付けの消毒液と、赤い文字で大きな注意書きがしてあった。

「母子感染予防のため、体調不良の方、感染症に心当たりのある方、小学生以下のお子様の面会は固くご遠慮します」

そんな風に書かれると、消毒液を頭から被りたくなってしまう。とりあえず、指先から手首までを入念に消毒し、コートを脱いで脇に抱えた。
病室の扉をノックすると、ハイ、と元気な声がした。ああ、妙ちゃんだと思うと安心して、そっとドアを開けた。

「妙ちゃん。おめでとう」
「楓」

ピンクの入院着姿の妙ちゃんが、ベッドサイドに腰かけて赤ちゃんを抱っこしているところだった。

「さっき、ちょうど起きて授乳したところよ」

妙ちゃんの腕の中を覗くと、産毛のような薄い髪の毛をした赤ちゃんが抱かれていた。
産まれて間もない赤ちゃんを間近で見るのは初めてで、まじまじと観察してしまう。目も耳も、鼻も、全てが華奢で小さすぎて、精巧な人形かと思うほどだった。

「抱っこしてみる?」

と妙ちゃんが言うので、私はびっくりして首を横に振った。

「えっ!?いや、あの、落としたら大変だから、遠慮しとく!」
「大丈夫よ。ホラ、手を出して」
「うわ、妙ちゃん、ちょっと、ああ」

おくるみに包まれた赤ちゃんは、腕にすっぽりと小さくおさまってしまう。軽い、でもしっかりした確かな重みがあり、ふわふわと暖かい。お母さんの腕を離れたせいか、ここはどこ?と言いたげに、黒目がちな瞳を開いてはまた閉じてを繰り返していた。

「小さいね。……本当に、小さいね」

微かな息遣いや、瞬きや、欠伸なんかの他愛ない仕草が全部愛らしくて、神聖な感じがした。

「可愛い……」

よく見ると、顔の中央に寄った眉頭や、しっかりした目鼻立ちと輪郭が、一丁前の男の子という印象を与えた。区民祭りの時に会った旦那さんの面影が色濃くて、私は妙ちゃんに笑いかけた。

「旦那さんに似てるね」
「そうなのよ」

と、妙ちゃんは困り顔で言った。

「目鼻の感じなんて、あの人にそっくりでしょう。将来ゴリラ顔になっちゃうわ」
「いいじゃない。かっこいいよ、彫りが深くて」

じっと赤ちゃんを見つめていると、徐々に眉がピクピクと動き出し、頼りない泣き声で泣き始めてしまった。急に泣きだしたものだから、どこか痛いところがあるのではないかと、私は焦ってしまった。

「ふぇっ、ふぇっ……」
「あわわわわ、どうしよう妙ちゃん、赤ちゃん泣いちゃったよ!」
「あら、もう眠くなったのね」

妙ちゃんは慣れた手つきで赤ちゃんを抱き上げると、縦に抱っこして、背中をトントンと優しくさすりながら揺りかごのように揺れ始めた。お母さんの腕の中に収まった途端、ぴたりと赤ちゃんが泣き止んだので、魔法でもかけたのかと思ってしまう。顔を覗き込むと、すっかり安心しきった表情で、お母さんの胸に頬を押し当てていた。
それからだんだんと瞼が落ちて、すう、と眠りに入ってしまった。まさに、天使の寝顔だった。

妙ちゃんは赤ちゃんを起こさないように、低めの穏やかな声で言った。

「おっぱいを飲んで、眠くなったら寝て、お腹が空いたら泣いて起きて、またおっぱいを飲むの。この時期の赤ん坊って、自分がお腹の中から出てきたことを、まだ分かってないんじゃないかと思うのよ。だから、こうして抱いているとね……まだ、私とこの子はひとつなんだって感じるの」

妙ちゃんはうふふ、と微笑みながら、ふわふわの赤ちゃんの髪の毛に頬擦りした。

「そんなことを考える余裕があるのも、三回目のお産だからかもしれないわね。長女の時なんて全部が初めてのことばかりで、毎日、本当に必死だったわ」
「すごいね、妙ちゃん。三人姉弟のお母さんなんだね」
「そうよ。これからもっと大変になっちゃう」

そう言って微笑む妙ちゃんは、病衣姿でメイクもしていないのに、きらきらと眩しかった。内側から何か特別な光が発散されているのかと思うほどだった。
出産はおめでたいことだとよく言うけれど、妙ちゃんと赤ちゃんを目の前にして、祝福以上に願わずにいられない。どうか、家族が永らく健やかであるように。私の憧れの友達が、ずっと輝いていられるように。




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