隣人と二度、恋をする

□chapter10.Baby,please don't goA
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同棲を止めたいという楓の申し出に、俺は理解ある大人の男の対応を示し、彼女の意志を尊重する形で俺達の関係はいったん区切りがついた。区切りと言えば聞こえはいいし、別れ話こそしていないけれど、終わったも同然ではないかと思う。その証拠に、彼女に引っ越し先の住所を教えてほしいと伝えたにも関わらず、待てども待てども、彼女から何の音沙汰もなかった。

お互いに一人になろうとは言ったけれど、イコール、連絡を絶つことになるのだろうか?何度か自分から連絡してみようとラインを開いてはみたけれど、ブロックされていたらどうしようとか、既読のまま何の反応もなかったらどうしようとか考えると、自分からアクションを起こすのに気が退けた。呼び鈴を押せずにいた爺さんを笑う資格など微塵もないくらい、俺の方がずっと臆病者だった。それは楓とのことでこれ以上傷付くのはもう御免だと、防衛本能が働いているのかのようだった。


このまま、自然消滅の道を辿る予感がした。俺達の長い歴史は、セックスレスと彼女の浮気という形で、そこら中にありふれた恋人たちの終焉と同じように、ひっそりと幕を降ろすのだろう。

そんな風に漠然と、終わりを感じながら過ごしていた時、職場に一本の電話がかかってきた。取り次いでくれたのは若い女性の教諭で、何やら戸惑いの表情で、保留ボタンに指を置いたまま固まっていた。

「あの……坂田先生」
「ハイ、何でしょう」
「日日新聞の社会部の記者だという方が、先生とお話したいと……」
「は?俺にですか?」

新聞記者と聞いた途端、「不祥事」の三文字が頭に踊った。
高校教師と女子高生との淫行、生徒への暴言暴力、運営資金の着服。教職にある立場の人間が悪いことをすると、ものすごく悪いことをしたかのように非難されてマスコミにも取り沙汰されるが、俺自身は新聞記者に追及されるようなことは一切身に覚えがない。

記者からの電話ということで、職員室にいる全職員の耳が俺に集中していた。声が震えないように、喉を絞り出すようにして受話器を握る。

「も、もしもし。えーと、坂田と申しますが」
「銀時か?俺だ」

よく響く、くっきりした発音をする男の声がした。どこかで聞き覚えがあり、懐かしい感じがしたけれど、誰だか思いだせない。

「もしもし?」
「俺だよ、俺」
「…………」

もしかしたらオレオレ詐欺というやつだろうかと思って固まっていると、電話口でまた、銀時?と声がした。

いつのことだったろう、銀時、銀時と俺の名を呼ぶ声を、毎日毎日飽きるほど聞いていた。濁りのない声は、舞台役者のようにくっきりと、天高く響いていた。あれは一体どこだったんだろう。
―――そう考えていた時、俺の記憶に浮かんだのは、校舎の屋上から望むただっ広いグラウンドだった。同時に閃きのように、声の主がパッと頭に思い浮かんだ。

「お前……ヅラか!?」
「ヅラじゃない桂だ!」
「嘘だろ!?何年振りだよオイ!!」

思わずガタッと音をたてて立ち上がると、職員の好奇の視線がいっそう強くなった。

電話の主は、桂小太郎。高校時代の同級生だった。



***



桂小太郎は―――俺はずっと、ヅラと呼んでいたけれど―――高校生三年の時に同じクラスで、学級委員長をしていた。成績優秀で面倒見がよく、俺がなんとか高校を卒業して大学に現役合格できたのも、ヅラがサボり癖を矯正し勉強に向かわせてくれたお陰だった。それももう随分と昔の話だ。今は新聞社に入社して、記者として働いているらしい。
どうやら高校の教員名簿で俺の名前を捜して、わざわざ電話をくれたそうだ。せっかくだから久しぶりに会うことになって、週末に東十条で落ち合って飲むことになった。


待ち合わせの串焼き店に現れたヅラは、昔と変わらず端整な顔立ちをしていたけれど、背中の真ん中あたりまでの長髪になっていて、パッと見女と間違えそうな容姿をしていた。

「よゥ。すげえ伸びたな、髪」
「ああ。お前も相変わらずの天然パーマだな」

再会したのが女の子同士だったら、キャー久しぶりーとか言って、抱き合ったり手を取り合ったりするんだろうけど、俺達は短い挨拶を交わして、そのまま店のカウンターに並んで座った。声や顔立ち、喋り方は昔のままなのに、雰囲気ががらりと変わって別人のようだ。ビールを注文し、待つ間は会話がなく、形容し難い奇妙な感覚を噛み締める。

乾杯をしてから、ヅラはずっと言うのを待っていたような口調で言った。

「新宿で、偶然お前の彼女に会ったよ」
「は?楓にかよ。マジでか」
「お前の近況を伝え聞いて、元気にやっていると知って安心したが、やっぱり会ってみたくなってな」

楓からそんな話は一度も聞いていなかったので、驚いていると、

「いい子だな。小さくて、可愛らしい感じの」

と、ヅラは楓を端的な表現で褒めた。

「同棲してると聞いたよ。結婚の予定でもあるのか?」
「……ないよ。今はもう、一緒に住んでない」

嘘をつく理由もなかったので正直に言うと、ヅラは意外そうに目を丸くした。

「ということは、別れたということか。彼女に会ってからひと月ほどしか経ってないぞ。その間に何があったんだ。浮気でもされたのか」

早くも核心を突こうとしていたので、俺は飲んでいたビールを噴き出しそうになった。ヅラは昔から、空気を読むとか遠慮するとかが苦手で、常にキッパリと直球で来る。それがいいところでもあるし、デリカシーの欠如という、どうしようもない欠点でもある。

「あのなァ、ヅラ。久し振りに会ったっつーのに、プライベートな話題を根掘り葉掘り訊くなよ。こう見えても俺、結構傷付いてんだ」

注文した串焼きの盛り合わせが運ばれてきた。ビールとよく合う筈のつまみを、串のままかぶりついたけれど、旨いとも不味いとも思わなかった。旧友と再会して、まさか俺の不幸な身の上話をするつもりなんて無かったからだ。普通昔の同級生と再会した時は、昔話に花を咲かせたり、見栄を張って誇張混じりの仕事自慢をしたりするものではないだろうか。


盛り上がる空気が一向に無いまま、静かに飲み食いしていると、銀時、とヅラが言った。

「この世に女が何人いるか、知ってるか」
「35億」

ウケるかと思い、髪をかきあげて流行りの芸人の真似をして言うと、

「俺が言いたいのは、そういうことじゃない」

俺の頑張りを見事にスルーしてから、ヅラは店内にいる女の子のグループに視線をやった。

「周りをよく見てみろ。世界の半分は女だぞ。お前が好きそうな女は、そこら辺に沢山いるじゃないか」

テーブル席できゃっきゃと盛り上がる女の子達は、女子会の最中なのか、お喋りに夢中になる姿が確かに可愛いかった。でも、彼女達と俺の人生は他人という関係のまま、この先交わることはないだろう。
いや、今は、そんなことを想像できないのだ。人生の、同じ線の上を歩いていた人のことを、これからもずっと歩いていく筈の人のことを、俺はまだ……


「昔雑誌の記事で、男女の恋愛観の違いを読んだことがある。女の恋愛は“上書き保存”、男の恋愛は“名前を付けて保存”だそうだ」

励ますつもりか慰めるつもりか、ヅラはそんな話を始めた。

「女性にとって、過去の恋人の記憶は新しい恋人の記憶に上書きされて、次々塗り替えられていくらしい。だから女性は立ち直りが早くて、一ヶ月も経てば昔の恋人のことなんてすっかり忘れてしまう。それに対して男は、ひとつの恋愛に対してフォルダを作って、名前をつけて保存する。だからいつまでも過去の恋人のことを忘れられなかったり、失恋から立ち直れないんだそうだ」

楓の頭の中を思い浮かべる。坂田銀時と名前のついたフォルダにあるファイル全てが、一括選択でdeleteキーで削除された後、フォルダが他の名前に上書きされる。例えば、「高杉晋助」という名前に。
非情だ。なんて、無慈悲なんだろう。

俺の中にある楓のフォルダは、多分この先別の誰かと付き合っても、永遠に消せないような気がする。バックアップをとって、保護をかけて、何があっても失くしてはいけないと思うほど、俺にはまだ、楓が必要だった。
だが最後にヅラは、あっけらかんとした様子で追い打ちをかけた。

「彼女にとってお前はいつか、履歴にすら残らない男になるさ。だからお前も、さっさとフォルダを新規作成しろ。その辺の誰かを掴まえて肉体関係まで持ち込めば、恋人なんてすぐに作れるさ」
「黙って聞いてりゃ、お前酷ェことバンバン言うなあ。つーか、新規作成する容量なんて、俺ン中にはまだねーっつの」
「じゃあ、終わったことは早く忘れることだ。傷ついても、いつまでも落ち込んでいる訳にもいかんだろう」

ずけずけとした物言いも、ヅラなりの励ましなのかと思うと、思わずフッと笑みが零れた。
ヅラは思考と言動に表裏がないせいか、正直・正論というものを背負わされて会話をしているようで、酷い事を言われても不思議とすんなりと受け止められる。

「まあ、落ち込んでいる暇があったら、ちゃんと向き合えって話だよな。べつに……キッパリ別れたって訳でもねェし」
「ん?別れていないのなら、一体何に悩む必要があるんだ?」
「楓のフォルダを、今にも上書き保存しそうなクソ野郎がいるんだよ。お前もよく、知ってる奴……」

昔もこうして、ヅラに話を聞いてもらっていた。
表裏のない受け答えに、自分自身を見つめ直し、答えを捜しに一目散に学校を抜け出した時。

あれは確か十年前、高杉が俺の前から姿を消した時―――



(Bに続く)
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