隣人と二度、恋をする

□chapter12.Sorrow Love Song@
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三が日最後の日、高速バスで帰京した私は、荷物を自宅に置いてすぐ、かつての住まいへ向かった。
新宿のバスターミナルの混雑が嘘のように、都心から離れた住宅街は車の通りが少なく、静かな午後だった。マンションへは電車とバスを乗り継いでも一時間もかからなくて、こんなに近かったんだと思うと拍子抜けしてしまう。

エントランスを通りすぎ、扉の開いたり閉まったりする音や、壁の色やエレベーターの隅の汚れまで、何もかもが懐かしかった。けれど501号室の前に立った瞬間、体が竦み上がるような思いがした。緊張していると自覚すればするほど、全身が棒のように硬く強張って、背中に嫌な汗が滲み始める。

高杉さんの連絡先を知らないのだから、こうして直接会うしかないとはわかっている。悩んで、考えて、決意してここへ来たのに、突如として緊張が迷いを呼ぶ。
私は鞄にそっと手を差し入れて、実家で書いた手紙を取り出した。直接会わなくとも、彼に伝えたい言葉は文章にしたためてきた。こっそり郵便受けに入れて、帰ってしまおうか。


そんなことを考えていると、突然、ガチャッと鍵が開く音がした。わっ、と思って飛び上がるとドアが開いて、黒縁の眼鏡をかけた高杉さんが立っていた。
髪が、秋に会った時よりもだいぶ伸びている。目すら隠しそうな長い前髪を片手でかきあげ、その向こうから驚きの表情が現れた。

思考が停止して、咄嗟の言葉が出てこない。こんにちは、とでも言うべきだろうか。それとも、お久しぶりです?
いや、今はお正月だった。

「新年、明けましておめでとうございます」

カチコチの表情で棒読みの私に、高杉さんはプッと噴き出して笑った。その、控えめな笑顔を目の前にした瞬間、緊張や迷いが一気に吹き飛んだ。
ずっとずっと、この人に逢いたかったんだという、純粋な願望だけが残った。

「誰かが来てるとは思ったんだ。まさか、お前だとはな」

高杉さんは玄関のドアを大きく開けた。

「新年の挨拶に来た訳じゃあねェんだろ。上がれよ」

彼は私を招き入れると、そのまま猫のような静かな足取りで、本棚に囲まれた仕事部屋に姿を消した。そろりそろりと彼の後を追うと、そこは本の海どころか、資料や写真らしきものがばらばらと散乱し、足の踏み場もないような有り様だった。

「散らかってるだろ」

と彼はありのままを言って、椅子に座ってPCに向かった。

「キリのいいところまで書かせてくれ。もう少しで済むから」

はい、と私は答えて、部屋のドアノブに手をかけたまま、猫背の後ろ姿を見つめた。
そう言えば、昔もこんなことがあった。日本橋のホテルで眠りにつく前、仕事をすると言って背中を向けた時だ。ぼんやりと見つめているだけで、ホテルで過ごした夢のような夜の記憶がフラッシュバックする。艶がかった黒髪や、背中や、逞しい首筋を、ずっと自分だけのものにできたらどんなに幸せだろうか。

暫くして、キーを打つ音が止まった。高杉さんは深い息をつきながらパソコンの画面を閉じ、背凭れに身を沈めた。眼鏡を外して眉間を抑え、もう一度溜め息をつく。
ものを書く仕事をする人は、皆こうやって狭い部屋で、まるで殻に閉じ籠るようにして、作品を産み出しているのだろうか。お正月、世間の大半の人がのんびり過ごしている間にも、彼はカタカタと小さな音でキーをうちながら、活字と闘っている。地道で、とても孤独な作業に思える。

やがて彼は、一段落ついたと伝えるように、振り向き様に微かに笑った。

「待たせて悪かったな」
「はい」

ああ、と想いが溢れた。
こんな風に、優しく微笑むあなたが見たかった。愛おしくてどうしようもなくて、私は彼に駆け寄ると腕を回して抱きついた。カタン、という音がして、肘掛け椅子が揺れた。

「高杉さん」

力いっぱい抱き締め、息を潜める。彼はされるがままになっていた。やがて彼の両手が肩に添えられ、おずおずと覗き込むと、彼は睫毛を伏せて、静かに瞼を閉じるところだった。

目尻が描く曲線や、細く締まった鼻筋を目の前にして、なんて綺麗な顔立ちをしているんだろうと見惚れてしまう。私はゆっくりと、薄い唇に照準を合わせて顔を近付けた。ひんやりした唇に私の熱を帯びた唇が重なった瞬間、頭の片隅が真っ赤に破裂した。

角度を変えながら、唇の温度や形を思い出させるように、何度も何度も重ね合わせる。ほろ苦い煙草の味と薄いコロンの匂いがして、涙が出そうだ。煙草の残り香さえも、恋しくて恋しくて死にそうになる。


本と資料に囲まれた、薄暗い活字の海の中に沈んで、この世界には私達二人だけ。でも、数多ある書籍のどこを捜したって、私が彼に伝えたい言葉は、本当に知っておいてほしい言葉は、私の口からじゃないと出てこない。

ゆっくりと彼から離れると、切れ長の瞳が、名残惜しそうに私の唇を追っていく。私は彼の眼をじっと見つめた。
伝えたい言葉は、もう決まっていた。

「高杉さん。好きです」

彼の目が大きく見開かれ、それからどこか哀しそうに、すっと細くなった。

「好きです。でも……」

でも、銀時の優しさを、私はどうしても、切り捨てることができない。
銀時の抱える淋しさを、行くなよと子どものように訴える彼の孤独を、放っておくことはできない。彼との間には、人として、家族として、好きという種類とは別の感情がある。

「でも」、の続きを言えずにいる私に、高杉さんは苦笑いをして前髪を後ろに撫で付けた。

「黙って俺の前から居なくなればいいのに、わざわざそんなこと言いに来るなんて、お前は本当にお人好しだな」

言い方に皮肉がこんもりと盛られていた。私がここへ来たのは、逢って気持ちを伝えたいという一方的な衝動に過ぎなくて、高杉さんはどう思っているんだろうなんて考える余裕はなかった。なんと返せばいいだろうと困惑していると、

「分かってたよ」

と、彼は瞳を伏せて言った。

「お前達は似た者同士だ。片方がもう片方を支えて、どっちかが居なくなったら崩れちまうような、脆さがある。お前達は、一緒にいるべきだ」

“お前達”と一括りにして呼ばれることに違和感はない。銀時と私は長いこと一緒にいて、どうしようもない時に頼るのは銀時しかいないのだと、私自身身に沁みて感じている。
それから高杉さんは何かを思い出したように、ふっと笑って言った。

「例えば俺が、“行くなよ”なんて言ったら、お前はますます困っちまうんだろうな」

私は俯いて唇を噛んだ。高杉さんがもっと自分本意で傲慢な人間だったら、銀時のことなんてお構いなしに、強引に奪っていくだろう。そうしたら、こんな胸の痛みはなかっただろうか。
いずれにせよ、どちらかに対する後ろめたさは消えることはない。彼らとの関係が偶然がもたらしたものだとすれば、それはなんて残酷なものか。


高杉さんは再び眼鏡をかけると、ゆっくりと立ち上がって言った。

「……最後に、お前に頼みがある」



(Aに続く)
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